おまじないも占いも信じない冷めた大人になってしまったけれど、そんな大人になってから唯一、願掛けなんて子供じみたことをしたアイテムがある。
つけた日はなぜか好きな人とたくさん話せる“魔法のリップ”
昔の職場には、好きな人がいた。ぶっきらぼうで、あんまり優しくない上司だった。
わたしが好意を寄せていることに気づいていたはずなのに、きっとわたしに興味がなかった。そんなところも好きだった。とはいえ、やはり関わりたかった。
8時間程度の短い勤務の間に何度話せるか。わたしの発したひとことで「ふっ」と妙に高い変な笑い方をするのを、何度見ることができるか。それが唯一の楽しみだった。
そんな日常のとある期間、とあるリップを手放すことができなくなった。
キラッキラの青みラメの入った、明るいレッドのグロス。
たしかにかわいい色ではあったけれど、別段気に入っていたわけでもない。
気分のあがる可愛いデパコスでもなく、ドラストの1000円ちょっととかのやつ。
それはわたしにとって"魔法のリップ"だった。
お察しの通り、そのリップをつけた日はなぜかいつも、好きな人とたくさん話せた。
笑ってくれた。ふたりきりになれたりもした。だからといってなにも起こりはしないのだが。
それに気づいてからは、彼と出勤が被っている日は必ずつけた。
また、彼が休みと知っていたけどたまたまそのリップを使った日、彼が私服で職場にプライベートで来たのには驚いた。無論、わたしの信仰はますます深くなった。
大事な恋リップは、ついにからっぽになり、廃番になってしまった
たまに家に忘れてつけられなかった日は、8時間も働いて一言も話せないとか、冷たかったとか。「あのリップがないからだ……」って、それはそれは気を落とした。
それ以降は、もうロッカーに置いて帰るようになった。
どうせ職場以外では会えない間柄。外ではつける意味がない。
そのグロスは、わたしがまじないじみた信仰を始めて少し経ってから、通称「エロリップ」と呼ばれはじめた(その時期そう呼ばれた名品はいくつもあった)。
けれど、わたしに言わせればあれは「恋リップ」だ。
結局小学生の頃、熱心に信じていたおまじないとかって、きっとこれと似たような類いだ。
靴は右から履くといいとか。自分の誕生日の時間を偶然見たら願い事を唱えるとか。
これをしたからきっといいことが起こる、起こらない、って信じていると、そうだった時の印象だけが強くのこり、そうじゃなかった時のことは忘れていく。
ついに、恋リップは からっぽになった。
まだまだわたしには、その魔法のパワーが必要だった。しかし新しく買おうとしたときには、その色はもう廃番になってしまっていたらしかった。
仕方なく別の似た色を買った。
もう、前みたいにいいことは起こらなかった。
魔法のリップはただの願掛けで、すべてわたしの実力だとわかっていた
けれど、恋リップのパワーを失ったわたしは大人だから、恋リップが本物の"魔法のリップ"ではないこともわかっていた。
……つけると魅力的になれる香水を手に入れた主人公。
ラストシーン、香水をくれた相手が、突然香水瓶の中身を目の前で捨ててしまう。
「それがないとわたしは……」と取り乱す主人公。
「これは最初からただの水だ。これまでのことはすべてお前の力だ」
そんな少女漫画を小学生の頃に読んだのを思い出した。
これまでの日々だってすべてわたしの実力だ。ただの願掛けだった。それだけ。
それがなくても、じゅうぶん彼と仲良く話すことが出来た。
それがなくても、きちんと最後には想いを伝えられた。
身につけるだけで何か起こるなんてそんな魔法、大人の世界には存在しない。
でもあの期間、あの赤くてキラキラした液体は、確かにわたしにとっては、秘密の魔法のアイテムだった。