幼いころはたくさんあった神様へのお願いも、大人になると滅多にない

仕事柄、子どもと関わることが多く、夏休みに入って専ら懐かしい気持ちでもくもくとした白い雲が浮いた空を見上げている。額に滲んだ汗を拭いながら、冷たい麦茶を飲んで喉の乾きを潤し、「今日もやるか~」と気合を入れる、私。
一方で、この状況ではあるものの、口々に楽しみにしていることをワクワクした面持ちで話してくれる子どもたち。

「この間、川で魚を釣ったんだ」
「今度、キャンプにいくからお父さんと必要なものを買いに行くんだ」
こんがり焼けた肌に様変わりし、キラキラした目でそんな風に教えてくれる。

かの有名なジブリ作品の歌に、「小さい時には神様がいて夢を叶えてくれた」といった歌詞があった。いつからか、大人になって仕事をするようになって、日頃から様々な情報や悩みを吸収しては相手にどんなことができるのかを考える時間が増えた。

幼い頃は、「あれがしたい、これがしたい、やってみたい」と野望が溢れていて、その度に夢が叶っていたのだろう。それが今となっては自分が何をしたいのかよりも、相手が何を欲しているのかを優先するあまりに、神様にお願い事をすることなんて滅多にない。

そんな風にいるとずっと空気を吸ってばかりいて、次第に吐くことを忘れて苦しくなることがある。欲しいもの、食べたいもの、行ってみたいところ、やってみたいこと、全てがどうでも良いと感じてしまうことがあるのだ。

海岸で楽しむ夫婦を見て抱いた憧れ。「やりたいこと』に心が潤った

話は変わるが、先日ちょっとしたリフレッシュをしたくて久々に海に行った。
広大な水平線を眺めると、「この先にはどんな国があるのだろう」と思ったし、大好物なお寿司を食べると忽ち幸せな気持ちでいっぱいになって、「やっぱり私はお寿司が好きだなあ」と感じた。

海岸では夫婦だろうか、小さな椅子に腰掛けてお酒を飲みながら読書を楽しんだり、会話を楽しんだりしている様子なんかも垣間見た。「将来、こんな場所であんな暮らしをしてみたいな」とむくむく私のやりたい気持ちが湧いてきた。
そんな事を友人に語っていると、人生まだまだやりたいことは沢山あったんだった、と心が潤っていった。

生まれてきたからには自分が何をしたいと思っているのか、そんな野望を持つことは希望なんじゃないか。やってみたいことがあって、そのためにちょっとでも良いから冒険をしてみることが元気になる活力のような気がしている。

毎月カレンダーに記入する「やってみたいこと」妥協しない人生を…

そんな私は、毎月カレンダーの下に「今月やってみたいこと」を書く習慣を作ってみている。どんなことでも良い、自分の心へ素直に問いかけてみるのだ。

例えば、夏は「蚊取り線香に火をつけてスイカをベランダで食べること」や「手に入れたドライフラワーに似合う花瓶を買って飾ってみること」を書いた。
まるで自分が小説に出てくる主人公のようになった気分で。そんな野望に少し手を伸ばせば、たちまち世界が彩られていくように感じるのだ。

人生を誰かのせいや何かのせいにして妥協や我慢をしたくない。愚痴をこぼしては、何かを消費することで気を紛らわすのも嫌だ。
代わりに、願望や希望を持っていたい。小さなことでも良いから冒険や挑戦をしたい。
大人になっても神様は私の夢を叶えてくれると信じて。