恋と呼ぶには、自分も、その出来事も、幼すぎた。全部が、生まれたてのヒヨコのようにふるふると震えていて、不安定だった。
きっと今もその塊は、私の心の中でゆるく、だけど確かにふるふると震えている。
中学校で部活を始めた。となりのコートにいた2つ年上の彼を見つけた
その人に出会ったのは、中学1年生のとき。1クラスしかない小さな小学校からすると、中学校は大きかった。学年は6クラスまで増え、ほとんどの人が初めましての状態だった。
着慣れない制服、白すぎる上履き、再構築される人間関係、初めての部活動。小学校から仲の良かった親友に誘われて、ソフトテニス部に入部した。そして、その人を見つけた。
女子と男子、分かれてはいたけれど、コートはとなり。その人は私の2つ上、中学3年生だった。
今思えば、13歳も15歳も変わらない、「中学生」という一括りで見てしまうだろう。だけど、あのときの歳の差というのは、どうしたって越えられない高い高い壁だった。
壁自体は透けていて、向こうが見渡せているのに、決して超えられない。世界は分断されていて、圧倒的に遠い存在。「大人」といっても、言い過ぎではないように思った。13歳の私には、それほどその人が遠かった。だけど、部活動に行けばその姿を見ることができる。
それはまるで、地上から見つめる夜空の星のようだった。埋まらない距離、でも見える。光ってる。手を、伸ばしたくなる。届かないと、わかっていても。
いつの時代にもSNSに似たようなものは存在していて、10年前にも、自分のプロフィールを公開するアカウント型のサイトを作るのが流行していた。自己顕示欲を満たすためのアカウントを誰もが持っていた。
かくいう私も自分のサイトを持っていて、休みの日になれば友達の更新具合をチェックするのが日課だった。そこに映る写真や、ブログ内容に一喜一憂しては、時計の針を見て絶望した。
結局、今としていることはそんなに変わっていない。中学生の私も、今の私も、時計の針の進み方は同じだ。人はいつでも寂しくて、誰かと繋がっていたくて、そして、好きな人がどんな暮らしをしているのか気になる生き物だ。
彼のことを知りたくて、彼のSNSのアカウントをチェックしていた
友達から友達へ、部活の先輩から先輩の友達のサイトへ、ネットという海をすいすいとサーフィンする。泳ぎ始めた海岸が見えなくなってしまったところで、私はついに見つけた。星に手が届いた瞬間だった。
私はそのプロフィールサイトで、彼の名前を知った。3年生のクラスも知った。更新されるツイッターのようなものに心を弾ませては、試合の結果に一緒に肩を落としたりした。彼の友達が更新しているブログもチェックして、載せられていたプリクラに写るあの人に胸をときめかせた。
「ストーカー」という言葉が頭をよぎりそうになるが、そんなの、弁解の余地もない。恋する女の子は、盲目で、ストーカーで、自分の範囲外で暮らしているその人の全部を知りたくなる。
そんな経験は初めてだったから、どこまでがいけない範囲で、どこまでが許される範囲なのかまったくわからなかった。ただ、とても「好き」だった。
夏には部活を引退してしまって、隣のコートからいなくなった。刻一刻と迫る「卒業」の2文字。行事が終わるたびに更新されるツイッターのようなものには、「最後の」という文字がついていた。
最後の文化祭、最後の体育祭、最後の授業参観。最後の合唱祭、彼は伴奏者だった。真っ黒なピアノの前に座って、細く、流れるような音を、その弾き姿を、私はじっと見つめた。
気づけば寒くなって、世界が白くなった。高校受験を控えていた彼の更新頻度は、日を追うごとに減っていった。
気づけば暖かくなって、世界はピンクになった。桜舞う3月。私はいてもたってもいられなくて、ついに彼のプロフィールサイトからメッセージを送った。自分では抱えきれない自分の気持ちがもう苦しくて、持ち切れないほど溢れた。
「卒業式が終わったあと、学校の裏にある〇〇公園で待っています」。たったそれだけ。それだけを送信するのに、1週間かかった。
来てくれるのかな。というか、そもそも私という存在を知っているのかな。ドドドドと滝つぼに大量の水が流れていくような音が、自分の心臓から聞こえた。
卒業式の日、私は彼が公園に来てくれることを願いながら待った
卒業式当日。式の最中、ひとつずつ次第が終わるたびに、頭がくらくらした。答辞、卒業生からの呼びかけと合唱が始まる。合唱祭と同じく、彼はひな壇ではなくピアノの前にいた。
この姿を見るのも最後。そう思うと、じくっと胸が痛くなって、じゅくっと目頭が熱くなった。上半身を揺らして、時々指揮を見るためにふっとあげる目線がかっこよかった。
式が終わり、私は光の速さで公園に向かう。1分が過ぎて、10分が過ぎて、1時間が過ぎた。ここにきて、あ、と思った。私は時間を書いていない。
卒業式が終わったあと、最後のHRがあって、あの人はたくさん写真を撮るだろう。それがどれくらいになるのか、私にはわからなかった。だけど、私にできるのは「待つ」ことだけ。
空がオレンジと紫のグラデーションになったとき、じゃり、っと音がした。ばっと顔をあげると、そこには彼がいた。一瞬でも気を抜いたら、自分は間違える、そんなふうに思った。
「あの!あ、その……、き、来てくれてありがとうございます!えーと……あ、卒業おめでとうございます!そ、それで、あの、私、えっと……」。終始ずっとこの調子だった。言いたいことを考えていたはずなのに、全然口から出てこない。
背の高い彼の、学ランのボタンに刻まれていた校章をずっと見ていた。結局、私はなんとか「好き」の2文字を伝え、前日に焼いたクッキーを渡して、その場を去った。
あの人は、「うん、そっか、ありがとう」と言っていた気がする。もう、よく思い出せない。
きっとあれは、私が初めて夢中になった恋なのだと思う。結果ではなく、夢中になった自分、がいる。ただひたすらに恋をしていた。わからなかったけど、恋をしていた。
今でもあの人のことが好き? と聞かれたら、私はこう答えるだろう。「好き、という気持ちが赤やピンクで表されるとしたら、私は今でも、無色透明であの人のことが好き」と。