高校卒業後、一浪して大学進学。浪人時代、全国から集まる予備校の生徒と仲良くなった。人見知りもあって、初めは緊張感もあったが、仲のいい友達ができるのに時間はそうかからなかった。
予備校は自転車で行ける距離だったから、昼休憩はよく帰宅しご飯を食べていた。下宿している友達の分も、母はよくご飯を作ってくれた。
母の、優しく温かい記憶。そんなことがあったことを忘れていた。
4人きょうだいの私たち子どもは、幼い頃から両親の喧嘩を見てきた
私はきっと、きょうだい4人の中で1番、実家の中での怖く暗く悲しい場面を、自分の目で見る時間が少なかったと思う。
幼い頃から、両親の喧嘩が少なくなかった。父の怒鳴り声。物を投げつける音。暴力。母の、泣き出しそうな声。時々泣いてる声。両親が階段を上ったり、降りたり廊下をばたばた歩きながら、聞こえてくる怒声。
時折止めに入る姉の存在を知りながらも、私は何もする気になからなかった。朝であれば、そのまま布団に潜り込む。夜であれば、平然とリビングでTVを観たり、子ども部屋に移動した。
晩ご飯は必ずといっていい程、家族全員が集まって食べた。今となっては、何のために集まっていたのかわからない。父の方針だった。
ダイニングにTVはない。かと言って、家族でその日にあったことをわいわい話すわけでもない。シーンとした雰囲気。冷たい空気。時々、食事中に父は祖父に対しても怒っていた。食事の時間だけでは収まらず、父の一方的な怒声が延々と続くこともあった。
そうでなくても、食後はいつものように、同僚や周りの人に対する愚痴を母に話していた。毎晩のように続く愚痴。それを聞かされる母も我慢できなくなり、怒り出すことも少なくなかった。度々喧嘩に発展し、子どもはそれぞれの場所に移動した。
私は中学・高校と運動部に所属していたから、家で過ごす時間少なかった
そんな中での食事だったからだろう。高校生になって、兄はよく皆で食べるのを嫌がった。部屋から出てこない兄に、時々父は腹を立て、食事中に呼びに行った。何を言っていたのかは知らない。きっと説教じみたことを言うこともあっただろう。今になって思う。あの時の兄の行動は、自然な素直な反応だった。
私は中学・高校と運動部に所属していた。中学の頃は身が入っていなかったが、部の友達と毎日のように練習や遊びに出かけていた。
高校は、先生が熱血だったので、練習も厳しかった。平日も休日も部活に明け暮れた。そんな感じだったから、私が家で過ごす時間は、1日の中でも少なかった。私は救われたのだ。部活に、友達に。
温かい記憶も冷たい記憶も、家庭での経験は「今」に影響していると思う
大学進学とともに実家を出た。大学卒業後2年間は実家に戻ったが、それ以降帰っていない。
一方で、私のきょうだい。姉、兄、妹。長女だからと、大学は実家を離れる選択肢を与えられなかった姉。高校から学校を度々休むようになり、部屋から徐々にでてこなくなった兄。文化系の部活に所属し、家で過ごす時間の長かった妹。
私は彼女らがふるさとにいた時間、吸っていたであろう実家の空気を知らない。私が生まれる前、姉と兄が見ていた光景を知らない。どんなに怖いことがあったのか、悔しく悲しい場面があったのか、きょうだい同士で違った記憶・思い出を話すことはあまりない。
だが間違いなく、経験したことはそれぞれの今に影響していると思う。温かい記憶も冷たい記憶も。どうか、それぞれの人生を、自分たちの人生と向き合って生きていけることを願う。どうか、みんな幸せに。