どこかへ行こうとするのに、自分を置いてけぼりにすることはできない。考えてみれば当たり前のことだが、そんなことにも気づかずに、私は進み続けようとしていた。
いつからか、とにかく頑張ることが大事だと思うようになっていた。
私は努力至上主義者で、「学業と仕事の両立」を目指す生活を始めた
昔から、頑張り屋さんだと褒められることが多かったからかもしれない。かつての自分が、がむしゃらに頑張ることで前に進んでいたからかもしれない。あるいは、好きだったアニメの主人公が、頑張ることであらゆる困難を乗り越えていたからかもしれない。
とにかく、私は努力至上主義者といってもいいぐらい、頑張ることに重きを置いてきた人間だった。頑張ることが全てだった私は、非常勤で仕事をしながら大学院に通うという選択をし、1年半ほど前に、いわゆる「学業と仕事の両立」を目指す生活をスタートさせた。
さらに、同じぐらいの時期から、所属しているボランティア団体でも少しばかり中心的な役割を担うことになった。大変そうではあったが、頑張ることが大好きだった私は、充実した理想の日々を思い描いてわくわくしていた。スケジュール帳が色々な予定で埋められていくだけで、謎の高揚感があった。
しかし、現実はそう上手くはいかない。「学業と仕事の両立」なんて、響きだけはいい。でも実際は、ゴールが見えないし何の役に立つのかはっきりしない研究に比べて、ある程度やることが決まっていて充実感も得やすい仕事の方に重きを置くようになってしまう。そうやって仕事にかまけていると、ゼミのたびに自分だけ何の進展もないような気がしてさらに嫌気がさす。
ボランティア団体の方も、初めての立ち位置で戸惑った。臆病な私は、余計なことをして怒られないように……と思って当たり障りなく事を運ぼうとすればするほど、そのことで注意され、自信がなくなっていく。
描いていた理想の姿に心も体も追いつけなくなっていたことに気がついた
こうして思うようにいかない日々を送る中で、全てが中途半端だと感じるようになった。そして何よりも、ちゃんと頑張っていない自分に腹が立った。
なぜ、私はこんなにも頑張ることができなくなってしまったのか……。中高時代の私はもっと頑張っていた。1日何時間も、自分を律して努力した。それなのに、なぜ今は…。いつも頭をよぎるのは、こんな思いばかり。
そうやって苛立っていると、体の調子まで悪くなった。それで余計に思うように動けず、また自己嫌悪に陥り……の無限ループだ。
そしてある時、何もかも嫌になって、私は泣きながらベッドに寝転がっていた。描いていた理想の姿に心も体も追いつけなくなっていたことに、私はようやく気がついた。
それから、なんでもかんでも「頑張らなきゃ……」と思うのをやめた。代わりに、時間をとってとにかく自分と向き合うことにした。置いてきた自分を迎えに行くために。
そうして思った。頑張るより前に、自分がどうありたいのかを知らなくてはならない。仕事も研究も何もかも、まるで何か正解があって、そこに至っていないから全然ダメだと思い込んでいたが、そもそも正解なんてないのだ。自分にとって心地よいバランスは何か、自分はどうだったら動きやすいのか。そちらの方が問題だった。
私は「ありたい自分」について考えることもなく、がむしゃらだった
私が中高時代に頑張れていたのは、勉強という狭い世界の中で、目標もやるべきこともはっきりしていたからだ。しかし、世に出てみると、目指す場所や道のりはそう分かりやすくない。
そんな中で私は、ありたい自分について考えることもなく、ただ責められたくないから、とにかく頑張っていれば何でも許されるから、と思ってがむしゃらに走り続けようとしていた。
それは、どこかを目指してではなく、周りの目から、そして何よりも自分から逃げるために際限なく走るようなものだ。それで運よくどこかに辿り着くこともあるのかもしれないが、その前に私は疲れ切ってしまった。
そんな経験をした今、思うのは、頑張って走り続けることが常に正解ではないということ。今、走るのか、歩くのか、休憩するのか。どこに向かって、何をするのか。最終的にそれを決めるのは自分だ。
だからこそ、私は立ち止まって自分に問いかける。今、どんな調子? どんな気持ち? 自分はどうしたいと思ってるの?
すぐに答えが出ることばかりではない。それでも問いかけることは忘れない。もう、自分を置き去りにはしたくないから。