中学に入学する頃に両親が離婚。幼い私にとって寂しい時間が続いた

私の両親が離婚したのは、私が中学に入学する頃だった。
両親と、兄、姉、私の5人家族だった。小学校3年生くらいから、既に両親の別居が始まっていて、家族で過ごした記憶はない。

子供3人は母方についた。母は、寂しい思いをさせまいと朝から夜まで必死に働いてくれていた。
しかし、別居が始まった頃から一人の時間が増え、幼い私はとても寂しかった。好きなテレビ番組を見つけ、一人で食事を取り、一人でテレビを見る。
兄や姉は年頃の為か、当時あまり相手にしてもらえなかった。

訪れた反抗期。母に酷く当たった私。それでも、母は優しかった

そして高校生になった頃、寂しい時間が多い環境で育った私に反抗期が訪れた。私はひどく母に当たったのだ。
「クソババア」
「どうせうちはお金がないんだから」
「こんな家さっさと出てってやる」
思い出すたびに後悔で涙が溢れるような言葉だったと思う。
始まった母は、「ごめんね」と言っていた。どんなにひどいことを言っても、母は優しかった。

私はその優しさが嫌いだった。どうしてあんなことを言ってしまったのだろう、という、罪悪感に襲われるのである。
反抗期は長く続き、私が高校を卒業し、就職してからも続いていたのだ。やがて私は家を出て、実家から新幹線で2時間程の場所へ引っ越し、一人で暮らし始めた。

自立したい気持ちが強かった。そして一人で暮らして初めて、母の苦労が身に染みて分かった。
初めての家事、お金のやりくり、全て母に頼ってきた事に初めて気がつくことができた。

いつも優しい母にお礼をしたい。母のいる場所こそが「ふるさと」だ

母はいつもこう言っていた。
「あなたの帰る場所は私のいるところだよ。いつでも帰ってきてね」と。
私は酷いことばかり言って、母に何かしてあげられただろうか。なぜ母は、いつも優しいのだろうか。

反抗期に母に浴びせた酷い言葉は、きっと母の記憶からも私の記憶からも消えない。これからは、母が私を産んで良かったと思えるよう、たくさんお礼をしていきたいと思っている。
母のいる場所こそが、私のたった一つのふるさとなのである。