以前から「かがみよかがみ」はたまに見ていて、他の人のエッセイを読んで楽しんでいた。それでも私が長い間投稿しなかったのは、フェミニズム的なテーマで筆をとるほどの切実な経験が、自分にはないような気がしていたからだった。

ふだんからそう。大学の卒業論文や仕事でも、女性に関するテーマを扱っておきながら、「フェミニスト」かと言われると、「いや、別にそんなものでもないし……」と思ってしまうし、幸運なことに“性差別”や“セクハラ”に遭ってきた自覚も私にはあまりなくて、そのことに対する不思議な罪悪感みたいな想いももっていた。
周囲では色んなことが起こっていたし、そのことを無意識に“内面化”してしまっているという意味で、私も極めて当事者だったから。

初めての投稿は、"色がついていない"と思えたフラットなテーマで

そんな私が初めて投稿したのが「あの夏の挑戦」。たまたまゴールデンウイークで時間があったのもあるし、このテーマを見たときに、とてもフラットで、“色がついていない”ように思えたので、書いてみることにした。
エッセイ(挑戦というより「冒険」だった16歳の夏。予備校の合宿に参加した)で書いた通り、私の人生で“劇的な夏”なんてそんなになくって、それでも、就活や教育実習や社会人になって任された大きな仕事などを思い浮かべてみたけれど、なんか違う。
そんななか、私の記憶の奥底から浮かび上がってきたのが、高校2年生で参加した予備校の夏合宿という極めて地味なエピソードだった。
書きながら、当時の感覚を思い出す。見た景色、聞こえた音、抱いた感情、その断片が少しずつ蘇ってきた。ああ、やっぱり、あの夏は私の1つの原点だ。書き終わる頃にはそう感じていた。

採用の連絡が来ると嬉しかった。少なくとも編集部の誰かは、私の吐露を受けとめ、共感してくれたらしい。
昔からクラスの学級日誌など、エッセイ風の文章を書くのは比較的好きだったけど、最近は自分で日記をつけているくらいで、「人に読まれる文章」を書こうと意識していなかったから、公の場に載ることに興奮を覚えた。
でも編集部の方がつけてくれた見出しとタイトル、そしてキャプチャ写真を選ぶあたりで、少し照れくさくなった。ふだんは関西弁のくせに、標準語で書いてる自分の文体も改めて読むと笑えてきた。

掲載報告をきっかけに友人と再会。彼女もいろいろなことを抱えていた

エッセイが掲載され、勇気を出してSNSでシェアしてみると、当時の友人、今の友人・知人が反応をくれた。そして10年前、高校2年生のとき、(エッセイで書いた)同じ合宿に参加していた友人の一人がコメントをくれて、数年ぶりに会うことになった。
実はその後、私と彼女は同じ大学の違う学部に進んでいた。大学卒業前にも一度会っていたけれど、社会人になってからは初めて会った。
お互い働き始めて数年。医療現場で働き、激務だという彼女の仕事、それでもやりがいを感じていること、恋愛の悩み、家族のこと……今になって初めて聞いたこともあった。まさに“ジェンダー”にまつわる理不尽さに直面しているようなことも。

自分なんかよりも「結構いろいろ大変そう」と思いながら、私も当時のこと、今やっているメディア関係の仕事は5年目で、ようやく少し楽しくなってきたけど、上手くいかないことや腹が立つことも多いこと、恋愛は相変わらずなことなんかを話した。

「(高校生の)あの頃は、合宿に来てくれたチューターの大学生がすごく大きく見えたよね。でも大学入ったら、全然すごくないじゃんって思った。もっと面白くて広い場所だったし、でも社会人になると、やっぱりあれも全然小さかったんだって思う」と彼女は言った。

過去、今、未来。自分や世界はいい感じに進んでいるかな

「そうだね」。16歳のあの頃、広がる未来に不安と期待をもっていた私たち。
27歳の今はどうだろう。このエッセイだってU29だし、そろそろ「若者」と言っていいのか、微妙な年ごろになってしまった。
今もやっぱり世界の広さと自分の小ささを日々実感するし、それでも、ふわふわした思いじゃなくて、小さくてもそれぞれの場所で、自分の立場で、具体的な何かに向き合っている。何も決まっていなかったあの頃がちょっと羨ましいような気もするし、それでもあの頃の自分たちからすると、それなりに一生懸命働いている今がキラキラ見えるんだろうか。
基礎は身についてきて、自分のやりたいことも少し見えてきた。それでも実力は足りないし、上司の壁も厚いし、何も大きなことを成し遂げてはいない。張り切っている日もあれば、疲れ切っている日もある。
37歳だとどんな感じだろう。ちょっとは進展してるかな。自分や、周りや、世界は、今よりちょっとは“いい感じ”にできてるのか。

エッセイは私の物語をすくいとり、想いを映し出してくれる“かがみ”

エッセイは、小さな物語をすくいとり、自分でも気づいていなかった想いを映し出してくれる“かがみ”のようなもの。大切な人との思い出の共有装置でもあり、未来への手がかりでもある。

分かりやすく“ジェンダー”にまつわるテーマだろうがなかろうが、“女の子”としての私の視点は少なからず入っている。“女の子”だけでなく、“地方出身”や“メディア関係者”、またそうしたカテゴライズに収まりきらない“私の視点”は自然とにじみ出る。

エッセイという”かがみ”を前に問いかける。”あの時の私”のこと、”今の私”にはどう見える?みんなから見たら”今の私”はどう?
そして”私のかがみ”には、色んな”彼女たち”が映り込む。ときには見て見ぬふりをしたり、ときには声をかけてみたり、飛び込んだり、距離をはかりながら。
書くことで“私の視点”が受けとめられ、変化する。“私”だけに閉じこもらないためにも、エッセイは必要不可欠なのだ。