「ねえ、やめて!!」
思わず手が出てしまった。後ろから彼の肩を突き飛ばした。力の加減もせず衝動的に押した割に、彼は中くらいの歩幅で一歩、前のめりに踏み出しただけだった。
……やめてよ。
振り返った彼の目には困惑と非難と少しの怯えが映っていた。わたしは既に彼を力任せに押したことを後悔し始めていた。ただただ悲しかった。けれど、「ごめん」はその場では出なかった。やっぱり彼が悪いと思っていた。
なんでこんな、幼稚園児がやるレベルのケンカを、その20年後にもなってやってるんだろう。
心のどこかでぼやいている自分がいて、悲しいやら情けないやらでうんざりした。

イライラしているところに、彼が土足で床板を踏んだ瞬間爆発した

ケンカの原因も低レベルである。
数年前の休日、その当時同棲していた交際相手とのケンカだった。二人で出かける前、わたしは出る準備を完了しているのに、彼がなぜか時間がかかっていて、わたしはイライラしていた(この前提がもうありきたりだ)。
この時間に出るって言ってたのに、なんで準備してないの?
さっきまで何やってたの?
これを言い出しても、わたしが余計にイライラするだけで、事態が何も良い方向に転ばないことはわかっていたので、それらの言葉をグッと飲み込み、玄関で彼をじっと待っていた。
彼はやっと支度を整えて玄関に来たけれど、靴紐を結ぶのにまた時間をかけていて、わたしは更にイライラした(虫の居所が悪すぎだ)。
それで……この辺りの記憶が曖昧なのだけど、彼が玄関のそばに置いてあるゴミ袋をマンション下の共同ゴミ捨て場に持っていこうとしたのだったか、とにかく靴を履いていたのに土足で上がり框に上がったのである。
彼は西洋の土足文化圏出身の人なので、この辺りの感覚はわたしと大きく違う。わたしは普段かなりズボラで掃除嫌い、多少部屋が汚れても、まあ死にはしないっしょ!という精神の持ち主なのだけど、彼が土足で床板を踏んだ瞬間、イライラの下地が熟しきっていたこともあって、普段以上にムカついてしまった。
「え!?やめてよ」
「何が?」
「土足で上がんないでよ。汚いじゃん」
「平気だよ。あとで掃除するよ」
彼はどこ吹く風といった調子で淡々と答え、いったん玄関土間に戻ったものの、さらに遠くのゴミ袋を取ろうとしてもう一度室内に土足を踏み入れた。
あなたの行動のせいで家を出るのが遅れているのに、なんで余計なことをしようとするの?
一回やめてとお願いしたのに、なんで同じことをするの?
2度目のそれで怒りを暴発させたわたしが、彼を妨害しようとして取った行動が冒頭の通りである。

怒りの後に訪れた悲しみ。わたしたちは幸せになれないかもしれない

……こうして書いてみると、当時は彼の方が悪かった気がしていたけど、絶対にわたしの方が悪い。
イライラに至る文脈があるとは言え、成人が成人を突き飛ばすのは傷害事件と同じ線上の話だ。
たまたまわたしが女で相手が男だったから、運良く相手に危害が加えられなかっただけだ。
それに、単純にイライラしすぎだった。
リミットがあるような外出予定でもないのだから、そんなに家を出る時間にこだわる必要もなかった。
「余計なこと」と思ったゴミを捨てようとしてくれた行動も、掃除嫌いのわたしの代わりに部屋を清潔に保とうとしてくれたからだった。

そういった冷静な反省からは程遠く、あの時のわたしにあったのはまず苛立ち、それから怒り。そして、怒りを爆発させた後の虚脱感。
最後に胸を占めたのは悲しみだった。
悲しくなったのは、自分たちの争いのレベルの低さが情けなくなったからだけではない。
突き飛ばされて振り向いた彼の目にわずかにちらつく怯えの色を見て、わたしは自分たちの未来を予知視した気がした。
きっといつかまた、わたしは彼の優しさをわからずイライラして、彼は彼でわたしの心情がわからなくて、わたしが癇癪を起こす。ヒステリックにわたしが彼に暴力を振るい、彼を傷つける。
そんな二人が幸せになれるものか。

最悪だと落ち込んでいると肩を叩かれた。彼が微笑んで立っていた

二人して最悪の気分になったが、とにかく外出はした。
本当は電車に乗って、彼に必要な本を買いに大型書店に行く予定だった。
しかし、わたしは気持ちの整理がつかなくて、駅に着く直前で「やっぱり行かない。カフェで持ってきた本読む。ひとりで過ごしたい」と言って彼と別行動を取った。彼には一人で本屋に行ってもらうことにした(彼のことを非難できないくらいマイペースだ)。
行きつけのチェーン店のカフェは混んでいた。席を取ってレジの列に並んだ。
最悪の日曜日だ。
あーあ。
なんで押しちゃったんだろ。
でも向こうも悪かったよ。
でも突き飛ばすほどじゃなかった。
疲れたな。
遅々として進まない列。狭い店内に焦点の合わない視線をさまよわせていたら、肩を叩かれた。
振り向くと、彼が少し微笑んで立っていた。
「なんでいるの」
「僕も行くのやめた」
結局、二人でコーヒーとサンドイッチを頼んだ。
取っていた席が二人がけだったので、席を探し直す必要もなかった。

子どもみたいなケンカをしたら、子どもみたいな仲直りをしよう

わたしは半べそで、何か言おうとすると涙声になりそうだったから、俯きながらLINEを開いて文字を打った。
「押しちゃってごめんね」
間髪入れず、彼からウサギがサムズアップしているスタンプが返ってきた。
恐る恐る顔を上げてかち合った彼の目には、ちょっとした恥じらいと、いつも通りの優しい光がちらついていた。

その日は二人でコーヒーを飲み、本屋には後日行き、土足で部屋に入るのはやめようというルールを改めて敷き、わたしたちは一日の終わりにもう一度謝って、お互いを許した。

教訓?
20歳を何年も過ぎても、子どもみたいなケンカをすることもある。
子どもみたいなケンカをしたら、子どもみたいな仲直りをしよう。
幸せになれるかどうかを一個の出来事で判断するのは早計。
ケンカをしたら謝ろう、お互いに。