柑橘系の甘酸っぱい香りと、フレッシュな爽やかさが混じる匂い。似た匂いを街中で見つけると、ついその姿を探してしまう。
もう会うことなんてないのに。
彼が使っていたヘアワックスの香りは、今も記憶の片隅にこびりついたままだ。
髪を整えるためにたっぷり使うヘアワックスは、自然と彼の匂いになる
彼と出会ったのは、私がまだ高校生の頃。当時大学生だった彼は、とても大人びて見えた。
友人を交えて会うことがほとんどだったが、私が大学生、彼が社会人になる頃には、2人で会う機会が増えた。
彼は出かける度、ヘアワックスで見事に髪を整えてきた。想像以上にたっぷり使うから、自然とそれが彼の匂いになる。隣に並ぶと、甘酸っぱい香りがふんわりと鼻を掠める。その度に、彼といる時間を、幸せであることを認識していた。
仕事終わりに待ち合わせして行く定番の場所は新宿のピカデリー。映画好きの彼に付き合って、それまで滅多に足を運ばなかった映画館に何度も訪れた。スーツ姿の彼が慣れた手つきで券売機を操作するのを見るのが好きだった。
映画を見終わった後、どちらともなく手を繋いだまま駅に向かって、南口の改札で別れを名残惜しんだ。
週末はショッピングへ。池袋のサンシャインシティで洋服を見て回った。当時流行っていたペイズリー柄のスカートを「バンダナじゃん」って言ったこと、もう覚えていないでしょう。それ以来、ペイズリー柄の服を一切買えなくなってしまったことも。
年末年始は、彼の家で一緒に年越しをした。夕方頃に集まって、鍋を食べながら紅白歌合戦を見て、夜中の特番を横目にゲームをする。朝方にやっと寝て、昼過ぎに起きたら、遅いブランチを取りながらまたゲームをする。ただの寝正月が、どれほど特別に感じられたことか。
キスの真意はわからないけど、一緒にいる時間がただただ好きだった
彼と共に過ごす時間は心が落ち着くようで、どこかそわそわと心が浮き足立つ、不思議な感覚だった。人はそれを恋と呼ぶのだろう。
でも、彼には彼女がいた。
「もうあんまり上手くいってない」
そう何度も口にしながらも、別れるそぶりはなかった。そのくせして、遊びに誘ってきたり、手を繋いだり、同じベッドで寝たり、時にはキスしてきたり。
今思えば酷い人だと思う。でも当時の私は、彼と一緒にいられる時間がただただ好きだった。その微かな温もり以外、何にも必要なかった。
彼の家に泊まりに行くと、私は決まって彼のパジャマを借りた。パジャマからは、やっぱりなぜかあのヘアワックスの香りがする。その香りと、彼の腕に包まれて眠る時間が、この上なく幸せだった。
そんな彼とはもう、かれこれ2年以上会っていない。私たちの関係性は有耶無耶なまま、キスの真意も知らないまま、自然と距離ができて会わなくなってしまった。かろうじて繋がっているSNSで元気にしていることを、ついこの間知った。
思い出の場所に行く度、残り香を探してしまう。そこにいるはずなんてないこと、頭では理解しているはずなのに。彼とよく訪れた場所にはあの匂いがまだ染み付いている気がして、つい深呼吸してしまう私を頭の中の自分が嘲笑う。
愛たっぷりの香りに安心するのに、あの匂いを探す私はないものねだり
今、私の隣には、私のことを愛してやまないパートナーがいる。パートナーからは愛用しているマスカットの香水の匂いがする。
ちょっと甘ったるい香りを嗅ぐ度に安心するけど、同時にあの浮き足立つようなドキドキがないことも実感する。
酸味が強い愛と、甘さたっぷりの愛。確実に後者の方が幸せなことはわかっているのに、未だに街中であの匂いを探している私は、ただのないものねだりだ。
だから、今日でヘアワックスの匂いを探すのはもうやめる。
さようなら、甘酸っぱい日々。
私のこれからの人生は、マスカットの匂いと共にある。