五感の中で匂いを感じる感覚は特に長く記憶に残る、とはよく言ったもので。そのせいで私はこの季節になると毎年、ある人のことを思い出している。
彼のために買った石鹸の匂いがするヘアミスト。デート当日は大雨で…
その日は大学に入って初めてできた彼氏とのデートの日だった。
女の子らしく見えるように新しくワンピースを買って。目が小さいのがコンプレックスだったから、よく伸びると話題のマスカラも準備した。
そして付き合う前、「シャンプーの匂いがフワッと香るような清楚系な女の子の方がタイプなんだよな~」と飲みながら語っていた彼のために、石鹸の匂いがするヘアミストを買った。
香水の方が匂いが長持ちするなんて、どこかのサイトに載っていたけれど、香水なんてまだ当時の私には高価だったので、1000円位のヘアミストしか買えなかった。
だけどそれでも良かった。彼の前でだけ良い匂いでいれれば、それで。
当日、台風が近づいていたこともあって、外は大雨だった。外に出れないほどの雨ではなかったけれど「風も強くて危ないし、また別の日にする?笑」と彼が言うので、約束はなくなった。
年上で私よりも経験がある彼にとって、会う日が1日減ったくらい、なんともないのかな、なんて思っていた。
「台風だからしかたないね」
そう送って、携帯を伏せた。
雨は止み、少し会えることに。ヘアミストは髪と体に振って彼の元へ
夕方。すっかり雨は止んでいて、空が高い。秋晴れだった。
「少しだけ今から会う?笑」
嬉しかった。面倒臭いと思われたくなくて、「仕方ない」なんて返事をしたけど、ほんとはびしょ濡れになってでもデートしたかったから。
急いでふて寝で浮腫んだ顔を洗って、寝癖で乱れた髪の毛を直す。
ビューラーでまつ毛をしっかりと上げて、マスカラを丁寧に塗る。
そして最後、ヘアミストを一振り。
髪の毛だけにつけるのがもったいなくて、体にも振った。
外に出て待ち合わせ場所へ向かう。
さっきまで降っていた雨のせいで、地面からは生温い湿気が上がってくる。だけど空気は乾いていて。暑いのか涼しいのか分からない、秋独特の匂いがした。
ヒールを履いてもまだ高いところにある彼の顔を見上げながら歩く。
彼から私はどんなふうに見えているんだろうか。ちゃんと清楚な子になれているんだろうか。
「あなたのために買ったヘアミストをつけた」なんて言えなかった
「卒論が大変でさ」
「今度バイトのメンバーで旅行行くことになって~」
彼がする話をうんうん、と聞いていた。1年生だった私にとって、4年生で卒業を控えた彼は少し大人で、全てがかっこよく感じた。
簡単に食事を済ませて、化粧直しのためにお手洗いに入る。
仕上げにヘアミストを一振り。
会ってから新しいワンピースの事も、頑張ったメイクのことも、もちろん匂いのこともまだ何も言われていなかったから。
帰ってきた私の手を握りながら彼は言った。
「あれ何かいい匂いする!なんかつけた?」
言えなかった。あなたのために買ったヘアミストをつけたんですって。ちなみにこのワンピースだって新しくて、いつもよりメイクも頑張ったんだよって。もっとスマートに聞いて欲しかったから。
「お手洗いのハンドソープがいい匂いだったのかな!」
今考えると苦しい言い訳だ。だけどその時の私にはそんな嘘をつく方が、ヘアミストをつけたって言うよりもよっぽどマシだった。
勝手に作り上げた大人の彼氏像。当時は嫌われないように必死だった
あれから数年。
私はパンツスタイルが好きだし、マスカラはもっぱらボリューム派。
香水は柑橘系で、某デパートブランドのものを愛用している。
私は勝手に年上の大人っぽい彼氏像を作り上げていたんだと思う。だからこそ嫌われないように、彼の好みに合わせて。
彼と別れてからは、相手に変な理想を作り上げないようにした。その人が本当はどんな人なのかを意識するようになった。そして自分も最初から偽らず、好きなものや嫌いなものを伝えられるようになった。
ヘアミストの匂いは忘れてしまった。ただこの季節、雨上がりの匂いがすると、いつも彼を思い出す。