去年の秋、私は19歳になった。今月終わりに20歳の誕生日を控え、ひとつの悩ましい問題が迫ってきている。
「成人式に行くべきか、行かざるべきか」
流行り病と同等かそれ以上に懸念されること。それは「中学時代のクラスメイトとの再会」である。
偶然同じ教室に居合わせただけ。ドロドロした感情を感じた中学時代
中1の時、受験して入った進学校で燃え尽きた私は、中2に上がると同時に違う場所の公立校に転入した。
そこで得られたものは、煌めくような素敵な思い出が1割、思春期には避けられない少々イタい思い出が2割。そして残りの7割は、嘆きと苦痛と憤りとがグチャグチャに溶け混ざった煮えたぎる怨念のマグマである。
思い出す度に口から朗々と呪いの歌が流れ、笑う天使が放つ5100度の炎で全てを灰に還してしまいたい衝動にかられる。特に酷いいじめを受けたとか、際立って不当な扱いをされてきたという訳ではない。
素敵な方の1割の思い出の中にいる、美術部の顧問の恩師はこう言っていた。
「学校っていうのは、チェーン店みたいなものなんだよ。もっと美味しいものが食べたかったら、自分でお店を探すしかない」
私には、そのチェーン店の味がとことん口に合わなかった。言ってしまえばそれだけの話なのだ。
中学校では何かにつけて「絆」だの「団結」だのと陳腐なスローガンが掲げられ、そこに迎合することが求められた。たまたま同じ教室に居合わせただけの、大して好きでもない十数名の人間と肩を組み、笑顔で走ったり踊ったりしなければならなかった。
美味しいとは思えない嫌な料理ばかりを延々と食べさせられる日々は、私の心にドロドロと渦巻く溶岩のような怒りを醸成したのである。
「気が合う友達」を知ることができた高校時代。火山活動は休息した
中3の秋、とうとうその火山は噴火を起こし、私は謎の発熱にうなされて学校を休んだ。回復して目が覚めた朝、驚くほど澄み渡った心の中でただ一つ、「もう学校へは行かない」と思った。
中1以来2度目の不登校生活。学校に関わる全てを憎んで過ごした。
担任も同級生も、文化祭も体育祭も、総て燃えてしまえ。みんな同じになれ。
自室に篭り、そんな内容の本と音楽で心を慰めた。
高校に入り、ゴシックイベントに参加したり、趣味の創作活動のサークルを作ったりする中で、私は漸く気の置けない友人関係を手に入れた。チェーン店とは違う、自分だけのお気に入りのお店を見つけることができたのだ。そしてそうなって初めて、中学校にいた彼らの気持ちが理解できた。
本当に気が合う友達というのは、一緒にいればいるほど心が満たされていくものなのだ。わざわざ声高に叫ばなくても、穏やかで温かい繋がりがそこにはある。
私が憎悪していたあの場所にも、これと同じ役割を持つ何かが存在していたとしたら、それを破壊する権利は誰にもない。やっとそう思うことができた。
噴出した溶岩は山肌で冷えて固まり、火山活動は今休息を迎えている。
出席すれば過去に決着が着くのか。数ヶ月で出さなければいけない答え
成人式に行ったら、きっとあの頃と同じ顔触れが並んでいる。会場ではきっとまたあの頃と同じ、口に合わないチェーン店の料理が振る舞われるのだろう。
でも今の私ならば、そんな料理の味も受け入れることができるかもしれない。あの頃の彼らを、彼らを憎んだ私自身を許せるかもしれない。
だがこれは大きな賭けでもある。もしかしたら料理を口にすることで封印した怒りが復活し、今度こそ総てを燃やして焼け野原を作ってしまうかもしれない。だからまだ迷っている。
「『復讐』とは自分の運命への決着をつけるためにある」と、好きな漫画の登場人物が言っていた。
燃やすにしても燃やさないにしても、出席すれば私の過去に、何か決着がつくのだろうか。それともそんなもの何処にもなくて、ただ傷をえぐるだけでしかないのだろうか。
来年の1月まであと数ヶ月。私は答えを出さなければならない。