高校生の頃から、漠然と結婚願望がありました。父子家庭で育った私は、父が亡くなったことをきっかけに、父のようにただ愛してくれる、受け入れてくれるような、そんな心の拠り所を求めていたんだと思います。
20歳を過ぎてからは、より真剣に結婚を意識するようになり、今の恋人が結婚相手としても相応しいかどうか考えるようになっていきました。
学生の頃は、性格や外見の良し悪しが条件の上位を占めていましたが、社会人になってくると条件は変わります。少なくとも自分よりは収入が良いことや今後の出世が期待できるかどうか等、より具体的な内容を結婚相手に求めるようになっていきました。そんな中出会ったのが、今の旦那です。
友人が結婚をしていくことに焦り、結婚競争に負けたくなかっただけ
彼は私の条件をほぼ満たしていて、私は彼と結婚しようと決めました。しかし一方で、彼は結婚願望が薄く、結婚の話が出たのは付き合ってから7年も経った頃、転勤のためでした。
最終的に結婚はできたものの、私はこの7年間、友人達にどんどん先を越されていき、内心彼に対する不満は爆発寸前でした。友人からも「結婚する気がない男なら別れた方がいい」と言われ、私が「結婚するなら彼だと思える相手だ」と話すと、「条件で見つけた相手なんて本当に好きではないのではないか」と言われたこともありました。
悲しくなった私は、彼に結婚についてどう思うか尋ねると、彼は「君が本当にしたいなら今しても良いけど、君はただ『結婚』をしたいだけで、僕との結婚を今望んでいるように思えない」と言われました。彼の言葉に最初はムッとしたものの、その言葉はストンと心に落ちました。
よくよく考えると、その頃私は会社で主任へと昇給し、後輩もできて仕事が充実していたのです。深夜まで残業することも多く、通勤に便利なように職場の近くに住んでいました。これを結婚によって制限されなければならないと考えると、それは私が今望むことではないことに気がつきました。私はただ仲の良い友人達が次々に結婚をしていくことに焦り、結婚競争に負けたくなかっただけでした。
彼の言葉に納得し、お互いが本当に結婚したいと思ったらしようという話にはなったものの、それでもしばらくするとまた私の心は焦り出します。私自身は今結婚を望んでいないはずなのに、年を重ねるほどに周囲からは「なぜ結婚をしないのか?」と尋ねられる機会は増えていくのです。尋ねられればられるほど、「仕事がしたい」という気持ちが揺さぶられていきました。
結婚して「心の拠り所」はあるようになったけど、「制限」が増えた
結果として、私は彼の海外転勤をきっかけに結婚をすることになり、職場も退職となりましたが、新婚生活当初はモヤモヤが止まりませんでした。あんなに望んでいた結婚だったにも関わらず、コロナのせいで結婚式も中止となり、友人もいない見知らぬ地で1人専業主婦になったことが嫌で堪らず、真剣に離婚も考えたほどです。
今は新しい生活に慣れ、問題なく暮らせるようになりましたが、「結婚」イコール「幸せ」というのは違うと身をもって体感しました。もちろん拠り所はできました。恋人だった時とは違い、簡単には彼と離れることはなくなり、家族として暮らすことができるようになりました。
一方で「結婚したんだから」という制限も増えました。新しい出会いを探すことはもちろん、どこかに行くにしろ彼に伝えておく必要があります。そして、結婚の次は「子供」を周囲は求めてくるようになりました。
私たちは体質の問題で、なかなか子供が授かりません。なぜ子供がいないのか、そんなことを周囲は考えることもなく「いつ子供を作るの?」と平気で尋ねてきます。
結婚競争の次は、子供競争。第一子ができても、また「第二子は作らないのか?」と言われることは目に見えています。周囲からの「して当たり前攻撃」は常に私を苦しめ続けています。
結婚すると新たな繋がりができる。それは自分にまとわりつく鎖となる
改めて言います。「結婚イコール幸せ」ではありませんでした。結婚でできた新しい繋がりは、自分にまとわりつく鎖となります。この鎖の重さを幸せと捉えるか、重荷と捉えるかは、個人の問題であり、周囲が催促することではないのです。
「結婚するのが当たり前」「子供を作るのが当たり前」、自分が当たり前だと思うことは自由です。でも、それを当たり前のように質問し、周囲に押し付けることがどれほど攻撃的か、私は知っています。だから私は、絶対にその質問をしません。
根強く残る当たり前の概念が、多様性の時代でなくなっていって欲しいと願うばかりです。