高校3年生の時、大好きな先生がいた。
先生は授業が上手なだけでなく、普段の言葉選びや考え方に優しさが溢れる人で、自然が大好きで、心が綺麗で、人間味の溢れる人だった。先生の授業は週に数回で最初はあまり交流がなかったが、何度か勉強内容を質問をしに行くうちに交流が深まり、先生の優しさとユーモアセンスに惹かれていき、私は先生のことが大好きになった。
でも、先生は既婚者だ。それに生徒と教師という間柄で「何か」あることは良くないことも私は分かっていた。だからこの思いは誰にも言わず、私の心の中に留めておくべきものだと思っていた。
すれ違いざまに挨拶すると、先生が「フフッ」と笑うのはなぜだろう
バス通学だった私は、毎朝登校時間が決まっていた。その時間は丁度、先生たちの朝礼の開始時間の数分前で、朝礼のために職員室に向かう先生たちと廊下ですれ違う時間だった。
私は殆ど毎日、大好きな先生に会って挨拶をした。時々出張や、普段とは違う場所にいて先生に会えない日もあって、更にそういう日に限って先生の授業がないと、かなりテンションが下がった。バスに乗り遅れてしまうと会えないことが確定してしまう。だから真冬の寒い季節になっても「先生の姿を一目でも見たい!」という思いで、早起きを頑張ることができた。
卒業も間近に迫ったとある冬の日。いつものように先生に会えることを期待しながら校門をくぐり抜け、いつもの廊下を歩いていると、目の前から先生がやって来た。私はいつものように先生に「おはようございます」と挨拶をした。すると先生は、
「あ、おはよう、フフッ」
……ん?今、先生に笑われた?これはいつも通りではない……。何かいいことでもあったのかな。その日はその程度で特に気にしなかった。
次の日の朝もまた廊下で先生に会えた。
「おはようございます」
私がそう言うと、
「おはよう、フフフ」
今日も笑っている。いや、私が笑われている?さすがに2日続いていると、どうして笑っているのか気になってしまった。他の生徒には普通に挨拶しているようなのに。今日の4時限目は先生の授業だ。終わった後に聞いてみよう。
いつも優しい先生に対して、今まで私はどんな表情を向けていた?
授業後。先生のところへ向かう。先生は作業の手を止めて私を見た。
「何か質問?」
「はい!あの……。なんで先生は私に朝会う時、笑ってくるんですか?何か良いことでもあったんですか?」
私は少し冗談っぽく、軽口をたたくように先生に聞いた。すると先生は昨日の朝から見せてくるような含み笑いをしながら、
「だって、毎朝俺が笑顔で挨拶をしても、あなたはいつもムスッとしていてさ。友達と話している時は笑顔で表情豊かなのに、俺と会う時だけいつも不機嫌そうで、本当は明るい子なのに不思議だなって。……じゃ!次の時間別のクラスで授業だから!」
そう言い残して先生は行ってしまった。
そうか。私、先生に会えて嬉しいのに、その「嬉しい」という感情に満足して、自分がどう見えているかなんて気にもしていなかった。あんなにいつも優しい先生に対して、今まで私はどんな表情を向けていた?
先生のことが好きになってから、学校が更に楽しくなった。最近はもう卒業まで日もないから、少しでも私は先生の姿を見たいし、こうして毎朝時間を見計らって登校して挨拶ができる日々を噛みしめているような思いだった。
もう少し素直になれていたら、先生の目に映る私は変わっていたのかな
けれど、ずっと心のどこかに「バカみたい」という思いがあった。
だって、私がどんなに夢中になっても、振り向いてもらえることなどないのだから。そして、もし生徒から直接好意を寄せられても、その思いにこたえるようなことをしない真面目で正しい優しさの溢れる先生だから好きなのだ。
私は先生に対して好きな気持ちを素直に表すなんてできないし、気持ちを察されてはダメだという思いが強すぎて、いつも他の先生たちと同じように、いや、それ以上に素っ気ない態度を自然と取り続けていたんだ。
あぁ。先生にとって私、生徒としてすら可愛くなれていなかったんだな。誰よりも好きなのに、好きという気持ちを抑え込むことに一生懸命になって、変に戸惑い過ぎて、普通にすらなれなかった。もう少し素直になれていたら、先生の目に映る私の姿も変わっていたのかな。
卒業式までは、あと1か月もない。学校に来る日は10日と少しだ。残りの数日間は、自分に素直になってみよう。
次の日。素直になると決意したにも関わらず、その日は朝、先生には会えなかった。また、明日も会えないかもしれない、明後日も、卒業式の日までも……もう、今までみたいに挨拶することはないのかもしれない。そんな思いが頭を過ぎった時、やっぱり馬鹿らしく思えてきた。
私たちの間柄的に何もできなくてずっと自分の気持ちに蓋をして、本当は会いたいし話したいのに、素直になれなくて……好きになってはいけない人だった。好きになっても苦しいだけだ。
不器用でわざとらしいけど、大好きな人に向ける初めての笑顔
下校時間。玄関に向かう途中のことだった。
「あれ?今帰り?」
聞き覚えのある声がした。先生だ。
「あ……。はい!」
「そっか~」
2人の間に沈黙が流れる。
「今日は朝会いませんでしたね」
「会議があったからね。明日は多分会えるよ」
先生は、優しい笑顔でそう言うと、続けて、
「じゃあね」
別れを告げる先生の一言が耳に届いた時、何かに背中を押されたように衝動に駆られた。
「さようなら!」
今の私、きっと不器用でわざとらしい笑顔だ。大好きな人にこんな風に笑顔を向けることが初めてだから。
先生はいつものように優しく笑いながら私に向かって、
「そうそう、その方が素敵じゃん。さようなら」
その言葉を聞いたとき、ずっと先生は私の気持ちを察していたように思えた。恥ずかしくて、嬉しくて、色んな感情が交差する。そんな私には、今みたいな少し引き攣った笑顔で震えた声の挨拶が1番、先生への素直な態度だ。
最後まできっとうまく笑えなかった、ある意味正直者な私をこれからも忘れないでいて欲しいです。そして、あの時より少しだけ大人になった今の私にまた会った時は、あの時よりも「素敵」な笑顔で挨拶させてくださいね。