記憶が確実に鮮明なうちに、全身が震えてでも書きたかった。
私はこれを書く数日前にセクハラされた。
場所は病院。前日の夜から具合が悪く、市内の内科に初めて行った。呼吸も荒かったため聴診器での診察になった。
恐怖のあまり動けず、早く終わることをただ願うだけの時間…
最初、聴診器は首元に置かれていた。が、医者の腕が私の服の中に入り込み、聴診器はブラジャーの内側に置かれたのだ。
ゾッとした、だけでは伝わらない。人の手が絶対忍ばないであろう場所に今日初めて会った男の医者に触れられているのだ。
しかし、そんなのお構いなしに医者は「はい、息を吸ってー、吐いてー」と聴診器での診察を続けていた。
気持ち悪い。
女性の看護師さんが診察室にいなかったことも恐怖と気持ち悪さを倍増させた。しかし恐怖のあまり動けず、どう逃げようか考えることもできない。早く終わってほしくてたまらなかった。
家に帰ってもモヤモヤが止まらなかったし、触られた胸の感触は気持ち悪いほどに残っている。あれは本当に診察だったのか、それとも……と考えているとある言葉が思い出されてきた。
セクハラとは「された側」がどう感じるかによって決まることを知った
「セクハラとはされた側が嫌だ、不快だと感じたらそれはセクハラなんです」
私は女子大に通っていたため、女性学やジェンダーについての授業を受けていた。その授業の時に教授が発した言葉である。
突発的にこの言葉を思い出した私はこう思った。「ああ、やっぱりあれ、セクハラだったんだ」と。「やっぱりあれは診察の一環だったのかも」と思い続けるよりはずっとましなのだが。
私は今回の出来事を通して二つの見解が生まれた。一つは前述したようにこのセクハラがセクハラと自分で認識出来たことが不幸中の幸いだと思った。おそらくジェンダー学の授業を受ける前は、セクハラ=100%相手がセクハラしようと思ってしたこと、と考えており、そのつもりなくしてしまったことはセクハラではないと考えてしまっていた自分も以前はいた。
しかし、セクハラはされた側がどう感じるかによって決まるということを大学のジェンダーの授業で学ぶことで、今回の件がセクハラだと気づけたから。相手が不快になること、気持ち悪いと感じることを考えられないような人がデリケートな人の身体を触る資格なんて無論ないのだから。
もう傷つかないために、「No」を強くハッキリと言える女性に
もう一つはとても悔しいのだ。なぜあの時声を上げなかったのか、逃げようとしなかったのか、その点に関してずっと自分を責めているが、ふと冷静に考えるとやはり恐怖で動けないのだ。何もできないのだ。痴漢などといった性犯罪で身体が抵抗できない女性の気持ちがなんとなくわかったのだ。
だが私は、やはりセクハラをされたら「嫌だ」「やめろ」と言えるようになりたいのだ。
今回の件でセクハラをされた時に反射的に言葉を出すのは非常に難しいんだと感じたが、私は非常に怒ったのだ。今度こそは「やめろ!」と言ってやりたいのだ。大事な私を守るために。自分の身体、そして心も傷つけるようなものから私を守ってやりたいのだ。
やはりあの医者は本人にその気があろうがなかろうが、セクハラをし、私を苦しめたのだ。私は現状を受け入れる力は身についた。どんなに困難でも「No」を強く、はっきりと、そしてその場ですぐに言えるような女性に私はなりたいと決意した数日間なのであった。
私はもう傷つきたくない。