この世の中は私がいないと回っていかない。そんな錯覚を起こす

毎日生活していると、自分が物語の主人公なのだと錯覚してしまう。
実家の食卓には私の席があり、そこに座れば、当たり前のようにお茶の入ったコップが目の前に置かれる。
仕事や学校を休むと、ちゃんと来なさいと連絡がくるし、行ったら行ったでちゃんと私の居場所があって、私を必要としてくれる人がいる。
ケータイを開けば、私が存在することを許してくれるコミュニティが広がっていて、私含む大勢のメンバーが日々会話を繰り返し、会話に参加することも、閲覧することも許さる。
その上ありがたいことに、会話に参加しなければ、
「最近忙しいの?」
と、連絡が来たりする。

そんな生活の中にいると、この世の中は私がいないと回っていかないのではないかという錯覚を起こしてしまう。
私がいてこその日常なのだと。
今歩いているこの道路も、イヤホンから聞こえる音楽も、見えるもの全て私がいて初めて意味を成すのだと。
周りにいる人たちもみんな私を必要としていて、私がいなくなっては困ってしまう。
そんなみんなのために私はいつもいい人でいなければならない。
キラキラした存在でいなければならない。
主人公らしく、清く正しく美しく、まっすぐな人間でいなければならない。
どうしてもそんな思いを抱いてしまう。

無理して頑張る必要はない。もっと自由に、自分勝手に生きよう

けれど一人旅をすると、それが全くの誤解であることを知る。
私がいなくても、この美しい朝日は毎日ゆっくりと昇り、住民たちに朝を告げ、私がいなくても、この街は人で賑わっていて、毎日笑い声を響き渡らせる。
私がいなくても、あの2人は毎日愛を育んでいて、私がいなくても、私の知らない世界では日常生活が行われている。
私がいなくても世界は回っていくし、私が1人いなくなったところで、この世界に大きな影響はない。
主人公が死んで仕舞えば物語は終わってしまうけれど、この世界の主人公は私ではない。
そう思うと不思議なことにスーッと肩の荷が降りる。
私がいなくったって世界は回っていく。

そう考えると、嫌な仕事を二つ返事で引き受けてしまう自分も、やりたいことを「迷惑になってしまうかな」なんて考えて我慢してしまう自分も、馬鹿馬鹿しく思えてくる。
無理して頑張る必要はない。
もっと自由に、もっと自分勝手に生きよう。
そんな風に私の心を強く、生き生きとさせてくれるのだ。

世界単位で見れば、自分なんて80億近くいるうちの1人にすぎない

だから私は旅をする。
誰もが私の名前も知らない世界に行って、通行人Bやバスのボタンを押した人ぐらいの人間になる。
誰も私が頑張ることも、キラキラすることも望んでいない。
望んでいないどころか、私が犯罪とか奇声をあげるとかよっぽどのことをしない限り、存在にすら注意を向けない。

そうやって物語の主人公を止めることで、リフレッシュすることができる。
もちろん、自分の人生の主人公は自分なのだけれど、世界単位で見れば自分なんて80億近くいるうちの1人にすぎないのだ。
次々と生まれては死んでいく地球人の1人なのだ。
"私ってなんでちっぽけな存在なんだ!"
そんなプラスになるマイナス思考が、自分の心にゆとりを取り戻させてくれる。
そして、また元の日常に戻って、私は自分らしく、自由に生きることが出来る。