私が通った幼稚園は、お砂糖のような古ぼけた木の甘い香りが漂うこじんまりとした園舎で、その雰囲気が最もしっくりくるのがクリスマスの時季だった。
クリスマス会では小さき者と先生の熱が入った、キリスト誕生劇を上演
むかしむかしにドイツ人のご夫妻によって建てられたプロテスタント系の園であり、私の家は特定の宗教を信仰しているわけではなかったが、毎日幼稚園ではみんなで小さな手を合わせアーメンと神にお祈りをしたものだった。
「神様は多分いるのだろう」。子供がみなサンタクロースを信じるように、当時の私はそんなことをぼんやりと思っていた。
春夏秋冬に様々な行事が催されていた。
春は赤や黄色やピンクなどの薔薇が咲き誇るお庭を訪れ、夏は青々とした森に行き川で遊んでキャンプをし、秋には近所の畑で赤紫色のさつまいもを地中から掘り出したものだった。そして冬、あのクリスマス会がやってくるのだ。
このクリスマス会は毎年恒例でキリスト誕生の劇を上演する。たしか私は羊飼いの役をもらっていた。チェック柄の赤い布の衣装を身にまとい杖をつき演じるのだ。練習では先生の熱がこもるが故にちょっぴり厳しかった記憶もある。小さき者達なりに一生懸命で、先生方はそれより更に熱心だった。
知っていることは少なくても、クリスマスは何かうきうきするイベント
クリスマス会の本番当日、家族が幼稚園にやって来て観客となり劇が始まる。
私の心臓はバクバクと鳴っていた。舞台に登ると、練習ではがらんとしていた客席にお客さんがたくさん座っており、左端には弟が笑顔で勢いよく手を振っているのが見えた。あまりしないほうがよいと分かりつつ左手を一瞬だけ振ってしまった。
それを除けば劇はうまくいき、ろうそくを模したライトを手に持ちながら「きよしこの夜」を合唱し無事閉会した。その後プレゼントとして近くのケーキ屋さんの苺のショートケーキが一人二個ずつ配られる。緊張の後のご褒美は幼稚園児にとっても格別だ。
笑顔の先生方からケーキの入った小さな白い紙箱を手渡してもらい家族と共に帰路につく。
そして弟とめいめいケーキを頬張るのだ。クリスマスはキリスト誕生のおめでたい日であること、きらきらのツリーが飾ってあること、サンタクロースからプレゼントをもらえること、なんだかみんなが楽しそうであること、滅多に食べないケーキを食べられること、それくらいしか分からなかったが、何か特別でうきうきするイベントだと感じていた。
幼少の記憶は、スノードームのように胸の奥で明かりを灯し舞い続ける
現在アラサー独身の私は、クリスマスにあの頃よりも大きくカラフルにライトアップされたツリーを見るし、大量のワインを飲んで、フルーツやナッツをふんだんにつかった豪華なケーキを食すこともある。
それはそれで楽しいし美味しいし結構満足だ。そして幼少の記憶をふと思い出す。子供なりに大変なことはあったはずなのに、まるで宝物のスノードームを振って美しくきらきらと輝く白い雪が燦然と舞って散りゆくのを眺めているような気持ちになるのだ。おそらくこの小さなスノードームは一生私の胸の奥で密かに明かりを灯し舞い続けるのであろう。
私にとってのクリスマスとは、この幸せな記憶を形作ってくれた家族や友人や先生を思い出し感謝する日なのかもしれない。そして、昔あのスノードームをたくさんの人からもらったように、誰かのために少しでも何か喜ばれることができるのならばどんなによいことか、と酔った勢いで図らずも思ってしまうのだ。
けれども「他者のために良き働きができているか」と自問してみると、あまりそうとは言えないことを思い出し、小さなため息をつく。
最近のクリスマスは、ある種、素敵なプレゼントを贈ってくれる。ひとときのささやかで幸せな想い出を内省という名のリボンで結って、ソファでまどろむ私のもとにそっと置いてゆくのだ。