自らを患者であると自覚して、行動する。
それが、2022年の私の宣言である。

自分では分かったつもりでいたことを、指摘され言葉が出なかった

変わり者とは言わないまでも、極端にふれてしまうところがある。
対人関係がままならないことは承知していたが、特定の対象を過剰なまでに突き詰めてしまうパーソナリティは、悪いことではないと思っていた。

あくまで主観で生きてきたゆえに、社会生活を送るようになってから、時折生じる不具合を適切に認識できていなかったのかもしれない。

遠まわしに、「あなたは自己本位である」と指摘されたのが数日前。
己ではわかったつもりでいたことを、相手の口から聞かされたとき、真っ当すぎる正論にしばし言葉が出なかった。
重たい沈黙のあと、これまでもこういうことはあったかと問われて、私の胸の内にすくったのは羞恥だった。
あなたは世間からずれている。そのことに無自覚なまま、ここまでどうやって生きてきたのか。暗にそう問われているようでならなかった。

屈辱としか言いようのない瞬間、まともに相手の顔を直視できなかった。
オンラインではあったが、全く関係のないブラウザを開いて、決して相手と目を合わせないよう努めた。そのまま画面を見つめていたら、歪んでいく自分の顔を哀れに思わずにはいられなかっただろう。

なんとかその場をやり終えて、涙をからきし流したあと、自分の特性を改めて客観的に振り返ってみた。

自分にとっての欠点は、天性のものではないか?父を見て思うこと

協調性がない。思ったままが口から出ていく。空気をよめない。ストレートな発言がひんしゅくを買ってしまう。
一度決めた規律から逸脱できない。行動がパターン化してしまう。他者や物事への思い込みが強く、被害妄想が激しい。

誰しも長所と短所があるように、人より劣って見えるところも、自分にとっての短所にすぎないのだと思っていた。

「人に対して線を引くのが早いよね」
「わかっているのに、なぜできないの?」
「まずは人間関係できるようになることからじゃない?」
「さやかは物語の世界に生きている」

しかし、これまでいろんな人に言われてきたことを反芻してみると、多くの人にとっては当たり前であることが、自分は著しく不得手な傾向があるように思った。
次第に、これは単なる欠点というより、天性のものではないかという疑念が大きくなった。

私の父は、企業勤めで多忙を極めた結果、双極性障害を発症し、ASDの診断を受けたことがある。長い間、他者と良好な関係を築くことができず、リワークプログラムに通い続け、医者と面談を重ねているが、未だに同じことを指摘されている。
その様子を何年も間近で見てきた私は、父のことを鬱陶しく思いながらも、その特性に見覚えがあることを感じていないわけではなかった。
だから余計に父が嫌いだったのだが、ここにきて、不覚にも父への同情がわいてきてしまった。

私には私の人生がある。自分自身を諦めながらも諦めない年にしたい

他の人には無理なくできることが、私や父のような種族にとっては、容易にはいかない。
どうしてそうなのかは、当人たちにもわかるようでわからない。だからこそ辛く、何より自分で自分に傷ついていく。

私の場合は、まだ診断されたわけではないから、あくまで自己分析にすぎないが、それでも世の中的には「社会不適合者」に分類されてしまうような括りに、カウントされる可能性があることを自覚しておこうと思った。

自らの言動が人に与える影響を、できるだけ認識しておくこと。私と接触することが多くなる人には、場合によっては前もって注意喚起をしておくこと。
一人で部屋に閉じこもって生きていくわけにはいかないし、他者との関わりが避けられない以上、対処法を見つけていくしかない。

自他共に認める、自己中。
不憫ではあるが、私には私の人生があり、そこに横たわる困難があり、それと付き合っていくしかないわけだから、まずは事実を受け止めて、できる限りの想定に備え、それでもどうしようもないことには、もがき、打ちひしがれながらも、その日その日を生きていくしかない。自分自身を諦めながらも、諦めない。そんな年にできたらと思っている。