先に結論を言えば、抱負なんてない……かもしれない

普段と異なる判断を下そうとさせる新年だからこそ抱負を持ちたくない

イベント事に弱いと気付いたのは最近のことだった。
確かに昔から、運動会だとか遠足だとかというものにはプレッシャーしか感じなかったし、だけどそれは学校という場が苦手だからだと思っていた。
しかし学生でも社会人でもない身分になり、家で家族と多くの時間を過ごすようになった今、そういう普段の暮らしにひそむ、クリスマスとか正月とかいう、なんてことのないそんな非日常すらも苦手なのだとわかった。

普段と違う出来事は、わたしのたおやかにありたいと願う神経をずるずると揺さぶる。高揚、不安、緊張、そういうものをもたらして、普段と異なる判断を下そうとさせる。その代名詞とも言えるような年の始まりだからこそ、わたしは一切の抱負を持ちたくなかった。

そんな気持ちはどこへやら、期待だけは次々と湧き上がっていく。
持ちたくなかった、と先の文を締めくくったけれど、それはつまり、持ちたくはなかったけれど持ってみた、という話への導入になるわけだ。

恥ずかしながら、わたしもこの世にある生きとし生けるもののひと欠片なので、とても欲張るし、どこか野心的なところもある。だからどうしても、持ちたくなかったとは言っても、今年やりたいこと、なりたいもの、そういうものをたくさん思い浮かべたりしてみたくなるものなのだ。

浮かんでくる数々の抱負の名を借りた欲も、いつのまにか捨てきった

今年こそは健康体で過ごしたい。外に出かける機会を増やしたい。周囲への気配りもより一層持ちたいし、自分の内にあるものも大切にしたい。あとはそうだ、学びも深めてゆきたいな……などなど、抱負の名を借りた欲ばかりがぽんぽんと浮かぶ。除夜の鐘の音もどこへやら、新年早々にわたしは煩悩の塊になっていったわけだ。

そう、非日常は憂鬱になるだけでなく、なぜかわからないけれど、どこか気持ちがハイになってしまうものでもあるのだ。それがこの、抱負について遅まきながら考え出した、徹夜明けの元日であればなおさらというものだろう。

目標を立てて崩す。だけどまた何度でも拾えるように。

けれども、高まった熱はだんだん下がっていくというのが世の常というもので、盛り上がったわたしの気分もまたしなしなとしぼんでいった。なんとなく頭に残ったバベルの塔さながらのそれはそのまま存在し、こんなものができるものか、と行き場のない憤りをふつふつとさせながら元旦を終えた。

しかしながらどうだろう、わたしという人間は、それだけで終わらないのが数少ない強みである。もう初日の出ではない朝日をいくつも迎え、日常に戻りつつある生活の中で、わたしは頭にあったやりたいものの山をすべて崩しきって、そして捨てきっていた。

なにかを捨てることはとても得意だ。それが頭の中にある、目に見えないものであるならなおさらだ。なぜならそういうものは、すぐに捨てることができて、そしてすぐにまた拾い上げることもできるからである。

捨てきらないし、諦めきらない。今年もしぶとく生きていこう

やりたいこともなりたいものも、嫌だったりできなかったりすれば、すぐに捨てればいい。わたしのような生きとし生けるものには、人生の短さは計り知れないのだから、なるだけ身軽に生きなければいけない。持つものを多くしすぎていては、この腕はすぐにちぎれてしまうだろう。

だから、わたしはすぐに捨てる。そしてまた、いつかの未来で拾い上げる。そうしてこの22年間を生きていたし、この23年目も生きていく。今年も同じように、軌跡をたどるように生きていけばいい。

捨てきらないし諦めきらない。今年もしぶとく生きてゆこう。

そんなわけで、例年通りに過ごすことが、わたしの抱負となったようだった。ほんとうにそう進むかどうかはわからないのでそんな表現になるが、未来というのは不確定要素で満ちているから未来なのである。わかりきっているのは今だけでいい、一歩一歩を踏み出す先が見えるのは、この瞬間だけだ。

今年も平穏に過ごしていく。そして好きさえあれば欲張っていく。趣味も義務も寄り道さえも、ただただひたすらに積み上げて、そして捨てたり拾ったりしていくのだ。
去年も一昨年も、言ってしまえば未来すらも引けを「トラ」ないような、そんな負けずお「トラ」ずの1年に仕上げていく、そんな気概でいる。そう、なんと言っても今年は「トラ」年なのだから!