2022年、「対話」を大事にしたいと思う。
自分が本当に思っていて、本当に伝えたいことを、自分の言葉で話す。
そして相手が本当に伝えたいことを聞く。

そう思ったのは、あるイベントをきっかけに、自分に足りないものが「対話」だと思ったから。
そのイベントは、私が最近夢中になっている映画『逆光』チームが行ったもの。監督の須藤蓮さん、脚本家の渡辺あやさん、編集者の西山萌さんが「言葉」についてトークするというものだった。
そのトークテーマは、『逆光』チームの取り組みのひとつである、「dialogue」という対話イベントを通して浮かび上がったものだという。

私にとって言葉は、多様な推進力を伴って発散する粒子みたいなもの

そのトークショーを聞いて考えた。
言葉は自分にとってどういうものか?

私にとって言葉は、口から出したら大小さまざまな推進力を伴って発散する粒子みたいなものだ。
一見重たい言葉でも、伝えようとする意識、伝えたいという気持ちがなければ前に進まなくて、口元でぽとりとそのまま下に落ちてしまう。
一見軽い言葉でも、伝えたいという気持ちがあれば、近しい相手ならわかってくれる。

ここでは、受け取る側の構え方も重要になってくる。
ぼうっとしていると、相手が発した言葉はどんどん散っていって、手の届かないところに行ってしまったり、床に落ちてしまったりする。
集中して、相手の言葉に耳を傾けて、とりこぼさないようにかき集めないと、正しく伝わらない。

加えて、空間を共有できないオンラインの環境では、相手の言葉を掴む努力をする気がしぼんでしまう。だって、真にはリーチできない気がするから。
マスクだって、邪魔なのかもしれない。

そもそも、自分の言葉、伝わる言葉って何だろうか

そもそも、自分の言葉、伝わる言葉って何だろうか。
借り物じゃない言葉――といっても、ほとんどすべての言葉が、最初はどこからか借りてきたものである。トークショーの中ではそんな話もあった。
それを私たちは体に取り込む。
自分にとってそれが馴染むものであれば、言葉はどんどん自分のおなかのあたりで熟成されて、醸成されて、経験や感情を伴った、自分の言葉になっていく。
自分にとってそれが異物と感じられるものならば、形を変えることなく、ただ胃酸で傷んで、より偽物らしくなっていくんじゃないだろうか。

だから発する言葉が、その人が真に思っていること、言いたいことではないとき。その人の思考や感情がそこに伴っていないとき。その言葉は薄っぺらく、偽物らしく聞こえて、届かない。

発される言葉が自分のものでないと受け取られず、床に落ちていく

たとえば部活のミーティングでは、受け取られなかった言葉が床に落ちていく。
それは、発される言葉が自分のものではなかったり、言いたい言葉ではなかったりするからだ。

誰かが部活をやめるか悩んでいる。
部員は「部員として」の言葉で話す。一個人としてどう思うか、ということと、部員としてどう思うかということは、しばしば異なる。その場合、発される言葉は本当に言いたい言葉じゃなくて、言う必要があって言っている言葉になる。

実際、そんな状況に直面したことがある。私は悩んでいるその人にかける言葉をうまく見つけられなかったし、見つけた一部の言葉とか、無理矢理近似した言葉とかも、推進力を持って飛ばすことはできなかった。
それは、これでいいのかと迷っていたから。伝えたいのはこの言葉じゃないとわかっていたから、どこかで伝わらないほうがいいと思っていて、だからきっと、彼女にも届かなかった。

自分の言葉で話せる場所を確保するため、「対話」の場を見つけたい

言葉にすると限定されてしまう場合がある、という話もトークショーの中でなされたが、それも本当にその通りだ。
ミーティングで、迷ったまま、正解を見つけられないまま発した曖昧な言葉なはずなのに、それを文字に起こせば、「あなたの気持ちを本当の意味で理解してあげることはできない」「自分が幸せに生きていけるのが一番だから、やめるほうが幸せならそのほうがいい」という一意的な言葉になる。でもやっぱりこの文字列を見ると、私が本当に伝えたかったことなんてほとんど残っていない。ぜんぶぜんぶ、私の体内に残ったり、ニュアンスという目に見えない粒子になって床に落ちていったりした。

そんな部活のミーティングは楽しくないし、むしろ息が詰まる。
そうじゃない人もいるかもしれないけれど、少なくとも私の目には多くの人が、自分の立場を考えて、「こう言うべき」に縛られているように映る。
私も、自分の本当の考えとは全然違うことを言っている。

ただ、部活という組織の中では、それはある程度避けられないことだと思う。
その制約の中で、自分の考えをいかに伝えられるか、それが大切である。

でもそればかりだと心が疲れてしまうから、2022年、私は所属する組織とは別のところに「対話」の場を見つけたい。
自分の言葉で話せる場所を確保する。
それが、私が私でいるために必要なことなのだと思う。