私が読書的原体験を語るのなら、「デルトラ・クエスト」(エミリー・ロッダ著、岩波書房/講談社)シリーズは欠かせないものになる。
内容は平たく言ってしまえば、国家の危機を救うため王家に代々受け継がれてきたベルトにはまる宝石を探す旅をする冒険ファンタジー。よくある感じの王道モノだ。
作品の詳細についてはあまり覚えていない。なんせ小学校の高学年の頃の話で約20年くらい前の話になるからである。
世は海外児童文学ブーム。キラキラした表紙の本を手に取ったのが始まり
この時期といえば、某イギリスの魔法学園ファンタジー第1作目が映画化された頃になる。よもや20年後にはアメリカが舞台のスピンオフが映画化されているなどと夢にも思うまい。そんな長寿シリーズの流行りはじめだ。
それと同時にアメリカ発の吸血鬼がモチーフのダークファンタジーも当時の私たちの間で流行っていた。これも映画化されたので見に行ったが、正直こっちの映画はイマイチだったのを記憶している。
今思えば、2000年代初頭というのは「海外児童文学ブーム」だったのではないかと私は思い始めている。
そんなタイミングで当時の私が手に取った海外児童文学が「デルトラ・クエスト」であった。手に取った理由は単純明快、表紙がキラキラしてたからだ。いわゆるジャケ買い的なノリである。図書館で借りて読んでたから、ジャケ読みか。
そんなこんなで本を読むのが楽しくなって、デルトラ・クエストの著者であるエミリー・ロッダ女史のほかの著作やら、学校や地元の図書館にあった海外児童文学を中心にあれこれ本を読み漁るようになった。読書習慣が形成された瞬間である。
思い出したくない息苦しい中学生活。記憶にあるのは好きな場所での読書
非常に何気ないことを書いているように思えるが、私の中学時代を振り返ってみたら結構大事なことだったように思える。
本の力なしに、いじめられていた中学生活を乗り切れたと思えないのだ。
あまり覚えてないし、思い出したくもないのだが。とりあえず真っ当な友達がいた記憶がない。いなかったわけではないが、心の支えになったような友人はまぁ一人もいなかった。
私自身があの世代に求められるような集団行動自体を望まなかったのも、一つの理由だと思う。
ツレションとか、いまだにどうしてやるのかわかんないんだよね。あとは日常的にはいじめとかスクールカースト的な悪事が横行しているのに、学校行事だけは一致団結を求めるとか。あれ結局なんだったのかわからんのよね。理不尽。
そんなこんなで「(わかさぎが)触った机、溶けるぞ!」とか「わかさぎが触る前に図書館に入荷した本を読まないと呪われる!」とか、平気で同級生の男子集団に毎日、言われてたわけ。どう考えても意味不明なタイミングで手に唾をかけられたこともあったっけ。あとこの時期だと下校中に後ろから雪玉を投げられたこともあったな。
我ながら文章化するとヤバ過ぎてもはや笑えてくるレベルなのだけど、当時は結構切実だったわけで。おかげさまで中学1年の後期の記憶はマジでほとんどない。全く思い出せん。
まして「まだ中学生」だったから自由行動の範囲も狭くて、地元から出られなかったし。
高校に入るとちょっと遠い学校を選べば、通学圏内は全て行動圏内にできたから、学校でのフラストレーションは社会活動にリースできたけど、中学生のときはなかなかそうもいかない。
そんな常に意識がきりきりと張り詰めるような中学生活で勉強以外に何してたか思い出したとき、好きな場所で読書をしていた記憶が一番印象に深いように思う。
図書館とか、よく行く公園とか。あとは近所の古本屋で立ち読みとか。とにかく本を読んでた。
理由はよく覚えてない。学校が関係ない当時一番の娯楽だったのだろう。
そういった行為の基盤なしに、自分の身を一人で守りながら、理不尽な集団に溶け込むために自己矯正を求めてくる集団心理と真っ当に立ち向かうことができたとは思えないのである。
理由の如何を問わず「少数派が多数派の価値観に合わせろ」という指導をする学校教育は本当にいかがなものかと思う。
話が少々逸れたが、この頃に積み上げた読書経験は緩やかに今の私自身を豊かなものにしてくれているだろうとしみじみ感じている。
デルトラ・クエストそのものも日本では地味に息が長く、2017年にはオーディオブック化もされている。
何かの拍子に「デルトラ・クエスト」のタイトルを耳にすると無性に読み返してみたくなる。
今読み直したら、何を感じるのだろうかと。