自分らしさと、自分だけの幸せを模索することに対して「わきまえている」と評価された私は、とてつもなく気持ち悪かった。
コロナが流行る前、女性の友人と私の二人で食事した時だった。
私がTwitterで出会った男性と付き合うことに対して、友人から「あなたも女性らしくなったわね。乗り物が好き!って言って、港に行っているから、ちゃんと彼氏ができるのかどうか心配してたんだ」と言われた。

祝福の言葉に感じる「わきまえている女性」のレッテルに、窒息しそう

その瞬間、気持ち悪くて何も反論できなくなった。友人はきっと覚えていない、友達を祝福する言葉。でも私にとっては自分に「わきまえている女性」というレッテルで、窒息しそうになった苦しい思い出だ。

乗り物が好きな私も、彼氏と付き合う私もずっと「女」だったよ。乗り物が好きな私を「女」じゃないと切り捨てたいのかな、君は。というかこの彼氏、乗り物好きという趣味が共通していたから付き合っているのだが。なんて言葉はお冷と一緒に飲み込んだのを覚えている。
友人との会食で何も言えなかった私の代わりに、彼氏と付き合うことを決めた大学3年生の私の気持ちを、このエッセイで書いておく。

当時の私は、乗り物だけに憧れやときめきを感じていた。でも、自分に生理が来ることや胸があることに対する違和感はないから、性自認は女性で間違いない。男女関係なく恋愛的な意味で惹かれることはない。けれど、性的なことをしたらなんだか幸せになりそうだなぁ、という興味はある。
誰かとお付き合いするのは無理なんじゃないかと思う一方で、性的な関係が気になるお年頃。大学生のうちに初体験は済ませたい!ついに吹っ切れた私は、人間に対して憧れとときめきを持つことを諦めた。

乗り物を捨てて男を選んだわけじゃない。一緒に話せる人を選んだんだ

こうなったら、私のことを大事にしてくれる、信頼できる人と性的な関係を持って幸せになれるかどうか試しちゃえ。女性でも男性でもいいけれど、女性である自分を求める確率は男性の方が高いから、誰かと付き合うってどんなものなのか試そう、と。
具体的に言うと、色々あって自分を女だと知っているTwitterの相互さんの信頼できる男性、つまり今の彼氏を口説き落とした。

彼と付き合った結果、誰かと付き合っても付き合わなくても私の幸せは増えも減りもしないという結論を出した。
そんな時、友人は私に「あなたが乗り物なんかじゃなく、女の子であることをわきまえた、男性と付き合うという幸せを得られて良かった」と祝福してきたのだ。
女性の友人がおそらくは無意識に、わきまえた女の子であることを私に求めているという絶望に、地滑りのように彼氏と付き合っている幸せが減っていくのを自覚した。

私、乗り物が好きだから、一緒に乗り物の事を話せる人を選んだんだよ。乗り物を捨てて男を選ぶわきまえた女なんかじゃ、ない。

私の一部でしかない「女」という属性しか見ていないことが苦しかった

私の友人は、男性と付き合うということはわきまえることで、それが女性としての幸せにつながると思っている。わきまえた女であれという押し付けは、女性として幸せになってほしいという願いと絡み合っているのだろう。
つまり、友人が私の幸せを祈りながら、私をわきまえた女として扱うことは、私の一部でしかない「女」という属性しか友人は見ていなかったんだな、と思えて当時の私は苦しかったのだと思う。

確かに、彼と一緒にいられる私は幸せだと思う。乗り物に感じるような憧れやときめきはないけれど、彼氏は私にとって、人間として尊敬できるパートナーだ。

でも、彼と付き合い続けることで自分以外の人間から「わきまえている」女性として扱われ続けることは、私にとっての幸せではないということも、わかってしまっている。