私は、長らく母が苦手だった。
母が、何を考えているかわからない。本当のことしか言わない口が怖くて、だから専門学校卒でしかない母を疎んだ。
母も多分、私が何を考えているのかわからなかっただろうし、何かと母にさまざまなことを隠しがちな私にやきもきしていたと思う。そんな私たちだったけれど、大学生でできたいわゆる「彼氏」の存在が、だいぶんと私たちを変えた。
「やめといた方がいい」。うるさい母の言葉に、深まっていく私たちの溝
はじめて彼氏という存在ができたのは大学生の時だ。それまでも数回告白されたし、付き合おうと言われるがまま頷いたけど、特に何もなく自然消滅した。
だから、はじめての彼氏という存在に舞い上がっていたのだ。若干男尊女卑的な考え方を持っているなとは思っていたけれど、まあ大丈夫だろうという楽観視も手伝っていた。
だが、母はその相手を不安視していた。そもそも付き合っていることは隠していたけれど、友人として紹介したことはあった。その際、「あの子と付き合うのはやめといた方がいい」という旨の言葉を何度かかけられた。
だが当時、大学生特有の妙な無敵状態になっていた私に、その忠告はただ煩わしいだけだった。ひたすらに聞き流し、その不安視の理由を聞きもしなかった。ほっといてくれよ、もうすでに大人なのに、とまで思っていた。
その態度が見えたのか、一層母は口出ししてくるようになった。さらにうるさいな、と返す私。母との溝は深まり、彼氏への依存度も増える。ますます彼氏は私へ高圧的な態度をとるようになっていった。
ある日、私は母に彼氏と結婚前提にお付き合いしていることを伝えた。激怒が返ってくると思ったが、あっそう、という冷淡な言葉ひとつで終わってしまった。
この時初めて私は「見捨てられたのだ」ということに思い至った。
こじれた彼との関係。「助けて」と頼った母は、最後に抱きしめてくれた
とはいえ私にも意地がある。3日ほど冷戦状態が続いていたが、その間に私は彼氏と破局した。理由は、何度か重なった私へのモラハラだった。
私から別れを告げ、もうこれで全部元通りだと思っていた。誰も味方がいない結果になってしまったが、仕方ないとまで思っていた。
全く何も終わらなかった。
ひたすら携帯に大量のメールが送られてくる。時間を問わずにかけられる無言電話。流される、あいつはビッチだという噂話。まさかここまでこじれるとは思わず、私は思わず母にすがった。助けて、と事情を話した。
最初は無視していたような母だったが、最後には料理の手を止め、私の話を最後まで黙って聞いてくれた。話が終わった瞬間、母には、このドアホと言われた。そこから一時間ほど怒られた。
色々言われたけれど、最後には抱きしめられた。
二十歳、身長も一六九センチ、アホみたいなことをやらかした全く可愛くないはずの娘。
そんな娘を母はわんわん泣きながら抱きしめて、私の娘をそんな奴には渡さないと何度も言われた。
事件からもう四年。一生忘れてはいけない、母にすがった日々
そこから、母は私のために奔走した。今考えれば妹も弟も遅くまで習い事に塾にと忙しく、その対応をしていたのは全て母だった。それなのに大学生にもなった娘の不祥事も抱え込んでいた母。あの当時の私を今の私ならぶん殴っている。
結局解決にひと月を要した。その間に縁切り神社にも母と共に通ったし、母に大学の送迎までされた。最終的に、つきまといをするならそちらのご家族と警察に連絡するという母の一言で、全ては終わった。
この春、私が大学を卒業して二年が経つ。あのこじれた事件から四年ほどが経った。いまだに母はその話をほとんど掘り返さない。
そもそも、母と私の関係も相当改善された。今や我々は隠し事がないほどの仲であり、ある意味友達よりも仲がいい。親子というよりも、ひとりの人として尊敬している。おそらく母は、私のことをずっとそうやって人として扱ってきてくれたのだろう、ということもわかるようになった。
だけど、私は一生「すがったこと」を枷に生きていくだろう。
この枷は必要な枷だ。母にあんなに迷惑をかけたこと。母だけではなく、それをずっと見守ってくれた妹と弟のこと。一生忘れてはいけない。
心配してくれる家族がいる以上、あの私の失態は、傷のまま残しておこうと思う。