名画が人を惹きつけるのは何故か?
また、絵に関わらず、芸術の時代を超えた魅力に共通するものは何であろうか?
この問いに一つの答えを示すエッセイがある。中野京子『怖い絵』(朝日出版社)だ。

一見、何の陰りもない教科書や美術館の名画を見るとする。しかし、その裏の歴史や画家の思い、絵画の残した影響を含めて鑑賞したら、何が見えてくるのか。
中野はそれは恐怖であると主張している。人のほの暗い欲望や権力の残酷、そして悪意が、ある種の恐ろしさを生み、名画を名画足らしめている。
恐怖への抗いがたい誘惑が、人をその絵へ吸い寄せるのだということを、平易な語り口で初心者にもわかるように補足しながら中野はつづる。絵画を楽しむための第一歩というスタンスで、ミステリー感覚で読むのがおすすめだ。

創作は好きで選択科目は美術にしたが、絵を描く技術は上達しなかった

私自身は元々芸術的な感性に恵まれた子ではなかった。横顔を描こうとして一つ目小僧を描いてしまう程度には、物体の把握が出来ないのだ。もちろん、まだピカソもキュビスムも知らない。粘土や立体作品はまだましだった。
それでもクラスメイトの作品を見るのは好きだったし、ワイワイとみんなで大きな作品を作るのは楽しかった。大事なことは手を動かし続けることだと信じて、高校でも選択授業は美術にした。
今思えば、わざわざ不得意な教科で勝負する必要はなかったかもしれない。案の定、ツタンカーメンのデッサンは平面的になってしまった。アイドルの写真を模写したポートレートに至っては、カーボン紙まで使ってトレースしたのに全く似ていない。透視図法やパン消しゴムなど、理論的に教えてもらえたのが救いだった。

なかなか絵が上達しない焦りから、一年生の二学期は図書室にある図録などを現実逃避的に眺める日々が続く。『怖い絵』を初めて手に取ったのは、おそらくこの時期だろう。
最初の一枚はドガの「エトワール」。黒いリボンを巻いた、プリマバレリーナの躍動感あふれるワンシーンである。踊り子の画家ドガのことはさすがに知っていた。その活動時期が、オペラ座の風紀が一番乱れていた頃というのも、小耳に挟んでいた。
詳しくは省くが、中野はこの絵に当時のオペラ座の闇という恐怖が、見事に描き出されているとした。世界史Aで知った踊り子の画家の知識に、当時の世相が中野によって提示されることで、「エトワール」はただの名画ではなくなった。パトロン絶対主義に毒された舞台の恐怖が、この絵から漂い、余計に目が離せなくなるのだ。

知識と知識が第三者の提示で結びつき、新しいものの見方を知ることが出来る。絵画の鑑賞は、このように非常に知的で楽しい試みなのだ。創作の技能が全く上達しなくても、鑑賞という形で芸術に参加する。そこには何の自虐も不要である。

うまく絵を描けなくても、美術を楽しむことはできるとわかった

『怖い絵』に出会ったことで、私は描けない焦りから解放された。知識を持って作品を鑑賞することも、立派な芸術活動だと気づけた。
創る才能がないという理由で、美術から遠ざかる必要、遠慮や謙遜は一切ない。描く力と観る力は全く別のベクトルであるから、美術を楽しむという点での優劣は存在するべきではないのだ。
もう一つ変わったことがあるとすれば、進路の展望が開けたことだ。
『怖い絵』の表紙はフランスの「夜の画家」ジョルジュ・ドゥ・ラ・トゥールの「いかさま師」である。この独特のタッチや緊迫感にすっかりはまってしまった。この他にもドガやルイ・ダヴィドなど、中野はフランスの巨匠を多く取り上げていた。フランスのことをもっと知りたいと、県外の私立大学の仏文科を目指すことになったのである。
卒業旅行でラ・トゥールを本国で鑑賞できた際、私は本が起こす奇跡というものを、まざまざと見せつけられたのだった。