人は、食べたもので、できている。それと同様に、人格は、経験や見たもの、そして読んだ本で、できていると思う。
少なくとも私には、そう思える一冊がある。それが、『スロウハイツの神様』(辻村深月/講談社文庫)だ。

あれは、大学生の頃のこと。当時私は、自分の才能や可能性に期待し、一方で何者にもなれない不安に付きまとわれながら、何とか自身に価値を見出そうとしていた。
箱根駅伝の選手を指さして「あの人、知り合い」と自慢し、可愛い友人とのツーショットを「この子、モデルなんだ」と見せびらかし、誰もが知る一流企業への就職や、素敵な旦那様との結婚を夢見ていた。

「彼らに連なる私」で自己価値を演出する私に、赤羽環の言葉が刺さる

そんな時、この本を手に取った。
アパート「スロウハイツ」に住む20代の男女7人が、夢に、仕事に、恋愛にもがきながら、それぞれの道を見つけていく物語である、本書。
珠玉のミステリーでもあり、ラストのどんでん返しや、伏線の緻密さ、多様なキャラクターたちの価値観も非常に魅力的な作品である。
だが、何より揺さぶられたのは、この物語の中心人物、赤羽環(あかばね・たまき)の言葉だった。
「世界と繋がりたいなら、自分の力でそれを実現させなさい」
環が、同い年の登場人物、莉々亜に放った台詞である。

「あそこのパティシエに知り合いがいるんです」「あの事件に親戚のおじさんが巻き込まれて」といった話題で、容易に周囲の注目を集める女、莉々亜。そんな彼女に対し、環は「世界に縋りたい、無視しないで欲しいというその気持ちは理解できるわ。だけど、だったらそれは、自分の力で手に入れなければならない」と言い放つのだ。

これは、刺さった。電車の乗換駅で読むのを止めるつもりが、余韻に身を任せて終点の新宿まで行き、そのまま折り返してきた電車で、もう一度乗換駅を降り過ごしてしまうほどに、衝撃だった。
自分がしていたことは、友人や有名企業を利用して「彼らに連なる私」を演出しようと企む、浅はかな行為だったのではないか。それらに対する世界の評価は、私の価値ではないのに。

なぜ、架空の物語の主人公に、ここまで影響されてしまったのだろうか

「こんな素敵な人と付き合える自分」をタグ付けする愚かさを自覚してしまうと、私自身は世界に対して、驚くほど無価値だと気付く。何が自分の価値なのか、分からなくなった。
ある時、何の気なしに「祖父が本にはお金を惜しまない人で、大抵ベストセラーは書斎にあるから、この本も借りちゃった」と口にした。
「すごいね」という相手の声を聞いて、どきりとする。頭の中では、環の言葉が警告ランプのようにぐるぐる回った。
「すごいのは祖父であって、別に私はすごくないから」という、とんでもなく面倒くさい返答をして、逃げるように話題を変えた。
今思えば、もっと上手い返しがあるのだが、あの頃はそのくらい思考を侵食されていた。

なぜ、架空の物語の主人公に、ここまで影響されてしまったのだろうか。その答えには、実は気付いている。
自惚れ、あるいはヒロインと自分を勝手に重ねる痛い女、と思われるのが嫌で誰にも話したことはないが、環と私は内面的な部分が、どこか重なるのだ。
高飛車でプライドが高く、気性が荒いと言われるその性格。仕事の悪口を言われ、一人で泣きながら「あいつらみんな死ねばいいのに」と叫ぶ、決して明るくない性質。妹の柔らかさと対照的に描かれる、長女特有の頑なさ。本当に大事な人に対して、一歩踏み込めない不器用さ。
どれも、身に覚えのある感覚ばかりだった。

ストーリーはフィクションだが、その言葉は私の中でノンフィクション

そして、ぞっとするほど自分に似た内面をもつ環だからこそ、「世界と繋がりたいなら、自分の力で」という台詞一つに、あんなにも動揺し、こうありたいという「理想の私」像を見た。
ストーリーこそフィクションだが、その言葉は、私にとって圧倒的にノンフィクションだったのだ。
ただただ、他の誰でもない自分の力で何をすれば、環になれるのか、必死で考えた。

一応言っておくと、これは一流企業への負け惜しみでも、素敵な旦那様がいる女性へのマウントでもない。彼ら彼女らは、その立場に至る過程で「世界にとっての自分の価値」をきちんと示し、そこに意味があるのだと、今は理解している。
勘違いしていたのは、その過程をすっ飛ばし、会ったこともない遠縁の血縁者の肩書きでも、見栄えさえ良ければ手っ取り早く世界と繋がれるように思っていた、私のほうである。

脳内に環という人格を飼い始めた、あの日から、8年が経つ。
この台詞に痺れてしまった私は、結局、かつて夢見ていた有名企業にも就職せず、自慢できる旦那様もいない。
今あるのは、徹夜で戦い、泣いて苦しみ、一時はストレスで脱毛症にまでなりながら勝ち取ってきた仕事と、その過程で得たわずかな信頼と経験、それだけ。
それでも、そんな現実を、環のように誇り高く、強く生きていたいんだ。

今の私は、自分の力で世界と繋がれているだろうか。