「待って、日本の人口1億2千万人ってことは、一人1円ずつ貰えば1億2千万円になるの?!いやいや100円ずつ貰えば120億円じゃん、大金持ち~!!」
こんなアホな妄想を小さい頃からしていた私にとって、お金は長いこと「与えられるもの」であった。
小中高は勿論のこと、大学生になり、友人の多くがアルバイトを始め経済的に自立しても、精神疾患を持ち不安定な時期が多かった私は、アルバイトをがっつりとやることなく、親の脛をかじりまくりお小遣いを貰って生活していた。
だから27歳で人より遅れて社会人になり、ようやく自分で稼ぐようになった今、本当の意味で自由にお金を使える素晴らしさを痛感している。大きなお金を手に入れることは「自由」を手に入れることだった。

でも、お金が少ない「不自由」が絶対にイコール不幸せとは限らないのでは、とも思っている。幸せになるためにお金は絶対に必要だが、お金がないから絶対に不幸なわけではない、というのが私の最近の持論だ。
そのようなことを思うようになったのは、一つのニュースによって昔の自分を思い出したからだ。

誰もが通る超初級ビジネスの場で、100円以下で買える無限大のワクワク

「ねえ聞いた?!あのうまい棒が10円から12円に値上がりするらしいよ!」
オンライン飲み会の宴もたけなわな時間に、友人の一人が呟いた。
えええ!?まじ?と驚きが広がる。そこから盛り上がる、うまい棒談義。
何味が好きかという議論の末、結局コーンポタージュかチーズだよね、という結論になった。
友人の呟いたそのニュースで、私は20年近くも昔に、通い詰めていた駄菓子屋に思いをはせた。

下町の子どもにとって、駄菓子屋は、お金の計算を覚える学校であり、どれを買いどれを諦めるのか、安くて量の多いものを取るのか少々高価な質の高いものをとるのか、というお金の遣い方と自制心を学ぶビジネスの場であり、集まる友人と交流する社交の場であり、そして何よりワクワクが詰まったパラダイスであった。
かくいう私も、小学校から帰ると、なけなしの100円を右手に握りしめ、駄菓子屋に駆け込むと、待ち合わせしていたわけでもない友人たちにそこで合流し、あれでもないこれでもないと散々悩んで買い物をし、公園に移動して戦利品を平らげる、というのがいつものコースであった。

当時10円だったうまい棒は安くて上手い不動のエース。私は必ず、これまた10円のきなこ棒を買っていたが、味が好きな上に、当たりがでるともう1本貰えるというお得感につられ、せっせと貢いでいた。結局一度も当たったことはなかったけれども。
あとは、ヨーグルも好きだったな、あ、キャベツ太郎も、カラフルな色がついたフルーツ糸引き飴も欠かさなかったけ。
全部の大好きを、100円以内に。不自由だったけれど、あの時の100円は、美味しいとワクワクと楽しいの引換券であった。

欲しいものがなんでも手に入ると、逆にワクワクを手に入れられなくなる

今なら何でも買うことができる。駄菓子屋に100円ではなく万札を握って行って、お金を気にすることなく、いやむしろ「ここからここまでぜーんぶ頂戴」と大人買いすることだってできるだろう。でもそこに昔のワクワク感はきっとない。
当時の私から見れば大金持ちになった今の私。多少の我慢さえ(毎月こつこつ貯めるとか)あれば、欲しいものは何でも手に入る。
お金を稼ぐこと、それは自由を手に入れることなのだと思う。でも、握りしめたたった100円に無敵感を覚えていた、不自由だったけれどワクワクするあの頃にはもう戻れないことに私は若干の寂寥感を覚える。

このエッセイを書くにあたり、通勤のため駅に自転車で向かう際、回り道にはなるけれど、久しぶりに昔通っていた駄菓子屋近辺を通った。

店主のおばあちゃんが亡くなり駄菓子屋は潰れ、跡地には新築の住宅が2軒建っていた。ここに新しく住んでいる住人たちは、昔そこが近所の子供たちのワクワクが詰まったパラダイスであったことを知っているのだろうか。
そんなことを思っていると、じきに自転車で駅前に着き、3時間100円の地上駐輪場に自転車を停めた。
急いでいたとはいえ、地下に持っていく面倒はあるものの、1日150円の地下駐輪場もあったのに。100円を握りしめ駄菓子屋に走ったあの頃の私を再び思い返し、しょうがないよね、と独り言を言い、お金を稼ぐために駅へ私は走って行った。