ある年齢を超えてしまえば最後、二度と「子ども」とは呼ばれない

私の中で「大人」とは何かと深く考えたことはあまりない。
お酒が飲める、タバコが吸える、夜遅くまで飲み屋街を練り歩く。これ以外にも大人じゃないと出来ないことはいくつもあることだろう。しかし私にはその程度しか思いつかない。こうして考えてみたら、私は「大人」というものになんの希望をもっていないのだと思い知らされる。

お酒やタバコなんてものは、一度年齢さえ満たせばあとは自由だ。朝からお酒を飲もうが、1日に数箱のタバコを吸おうがその人の勝手だ。
反対に「子供」はその年齢を超えてしまえば、もう二度と「子供」とは呼ばれなくなる。服を汚して帰ることもなくなれば、好きなものがないと泣き喚くこともなければ、近くを無邪気に走り回ることもない、自分の感情のままに何か行動することも滅多にない。

私は「大人という自由がある中で子供のようなことをしたい」

法律的には私は成人ではあるが、「大人」かどうかと問われたら即答なんてできないことだろう。お酒は飲んでいるし、タバコも吸っている、夜遅くまで繁華街にいることもしばしばしている。他の人からみればきっと立派な「大人」なんだろうが、私からすると大人とも子供ともいえない中途半端な人としか思えない。子供っぽいことをしているのかと問われたらそれはきっぱりと違うと返す。

無邪気に走りまわって服に泥をつけて家に帰ることもなければ、好きなものが食卓に出ないからと言って駄々をこねるわけでも泣き喚くわけでもない。
ならなぜ「大人」かどうかと問われたら即答が出来ないのだろう。

答えはきっと「大人」になんかなりたくもないから、というのが正解なのだろう。傍から見たら何を言っているんだこいつは、と思われるだろう。私もそう思う。
しかしこれが私の中で一番しっくりくる正解なのだ。なら「子供」だったらいいのかと言われたらそれもまた違う。

大人になったら責任が伴うんだよとか、子供のようにはいられないんだよとか、そんなことは百も承知である。
しかし私はそれでも子供のようなことがしたいのである。大人が無邪気に走りまわって服に汚れをつけて帰ってきたらそんなのは自分で洗えばいいだろうし、好きなものが食卓に並ばなかったら自分で買うなり作るなりして好きなものを食べたらいい。
私はいつまでもそんなことをしていたい。「大人」なのに、「子供」じゃないんだから、幼稚すぎるとかそんな言葉は、この先私には一切効かないことだろう。

考えてみて気付いた。やっぱり私は大人に希望をもっていなかった

改めて私の中の「大人」とは何かを考えると、固定概念にとらわれていたり、好きなことは山ほどできるのにしてみなかったり、周りの意見に耳を傾けすぎたり。社会人だから自由なことはほとんどできないのだろう。反対に「子供」とは何かを考えてみると、好きなことを好きなようにできる、心から何かを出来る。

社会にでてもいなければ責任なんて遠い未来の話のように思えてくるだろう。「大人」とは「子供」とは何かを考えてみたら案外これぐらいしか思いつかなかったが、十分だと思う。

やっぱり私は「大人」というものになんの希望ももっていなかった。