割って食べれば文明開化の音がしそうなチョコレートの存在を思い出した。
創業90年を超える老舗、近くのコンビニやスーパーに行けば、100円ぽっちですぐ買えるような板チョコだ。
子供の頃、このチョコレートが毎年、実家に送られてきていたことを思い出した。
なお、板チョコは板チョコでも100円で手近に買えるチョコレートではない。
小学校の学習机と同じくらいの大きさがあるのでは、と思わせる板チョコである。まぁでかいだけで、味はスーパーで買うものと大差ないのだが。
いつまで送られてきていたか覚えていない。とにかく小学生の頃は毎年食べていた気がする。
「あのでかい板チョコってまだあんの?」と思って検索してみたら
とりあえず2020年までは確実に存在しており、販売されていたようだ。例の板チョコを開封する様子を書いたネット記事が上がっている。
しかし、現状の値段を調べようとしたら、私が普段使っているネットショップでの取り扱いはないようだった。このバレンタインシーズンなのに。
最寄りのスーパーなどのバレンタインでの祭事売り場でも見かけない。
もしや廃番になったのだろうか?
それはそれで仕方ないというか、それもそうかと思う。時代の流れってやつかと。
「あの大きさなら結構映えるんじゃね?」とも思うのだが、1枚ぽっきりで映しても、ただの板チョコだ。ポットラックパーティーとかで持ち寄るにしても、コロナの影響でそのポットラックパーティーがない。
みんなでチョコ割って文明開化しようにも、その場がないのである。
私の祖母のように孫に送るにしても、ただのでかい板チョコより、流行りの「いってしまえば節分寄り」なことをしているアニメキャラのお菓子のほうが喜ばれること請け合いである。
無論、ランデブーの甘い雰囲気とはどう考えても無縁だ。
それだけバレンタインのチョコレート一つにしても、選択肢が増えたんだなと実感する。
昔なじんだ板チョコを食べながら、これからの自分の選択に思いを馳せた
選択肢が増えた。
これは何もバレンタインのチョコレートに限った話ではない。生き方に関する全てのことの話だ。
今日という日に何をして、何を食べて、何を思い、明日への進路をどう描くか。
バレンタインの祭事のチョコレートを眺めながら、そんな壮大なことに思いを張る日が来るとは思わなかった。
祖母が生きた時代に比べれば、生きるための選択肢の自由度は上がっているんだろうなと、ふと思う。
とはいっても、急に思ってみたところで何が変わるわけでもなく、何か大いなる野望やら抱負が見つかるわけでもない。
今日の晩御飯をどうしようとか、ストックの食材をできるだけ安く手に入れたいとか思いながら、スーパーの食品売り場に買い物に行く。
ああ、今日は白菜が安く手に入ったから鍋にしよう。
その日に何を食べるかだけでも、選択の連続だ。
日々、最善・最良の選択をしていきたいと思う。
そう考えるならダイエットのために甘いものなど言語道断なのだが、どうにもこうにもかつて祖母が送ってくれたチョコレートを食べたくなり、買ってしまった。
子供のころは、板チョコを衝動買いして1枚丸まる食べる日が来るなんて考えられなかったなあ。
最善・最良の選択とはいったい何だろうと考えながら、昔なじんだチョコレートの味にほっとしていた。