母のような大人になりたかった。でも学校に行けなくなって…

小学生の頃、大人になったら母のような人になれると思っていた。
母のように、仕事も家事も完璧にこなして、いつも笑顔が素敵な大人になりたかった。

中学生の頃、起立性調節障害になった。起床時に血圧がうまく上がらなくなる病気で、うまく朝起きられなくなった。
最初は遅刻してでもクラスに足を踏み入れていたが、視線がチクチクと突き刺さり、私はクラスに足を踏み入れることができなくなった。私は今まで普通にできていた「学校に行く」ということができなくなった。そして、通っていた塾も同じ学校の子たちのこそこそと聞こえる噂話が嫌でやめてしまった。
1日中家の中で過ごす「ひきこもり」になった。私はどんどんと思い描いていた大人のレールから外れていった。

そんな時でも母は笑顔で、「個人授業してくれる先生のところ行ってみる?」「本屋さん参考書やワーク見に行ってみる?」と、私のことを支えてくれた。仕事の合間に片道1時間かかる専門医のもとへ送り迎えもしてくれた。

母からのサポートはうれしかった。うれしかったけど、私の身体は一向に良くなる気配がなく、母と比べては落ち込み、徐々に私は心を塞いでいった。いつも私の頭の片隅には、「私は母のような大人になれない」。そんな言葉がべったりとこびりついていた。

「母のようになることだけが大人になることではない」と気づいた

気分の落ち込みが激しかった私は、担当医の紹介で心理士さんと面談することになった。月に一度の面談は、高校を卒業する時まで継続した。
心理士さんと一緒に自分と向き合う中で、私は自分の中の認知のゆがみや視野の狭さを自覚した。
そして、進路について悩んでいた高校三年生の時、私は気づいた。
「母のようになることだけが大人になるということではない」

そう気づいたとき、私は涙を流していた。大人に近づいている感覚がないのに、年齢だけは大人に近づいていく。そのことへの不安や焦燥感が軽くなった。それと同時に、大人に近づいた感覚を体験した。
自分のことが少しわかるようになった感覚は、数学の問題が解けるようになった時のような、新しく英単語を覚えた時のような、そんな感覚だった。

心理士さんとの面談を終え大学生になった今、私が思う大人になるということは、「私自身が私の心のよきセラピストになる」ということだ。
自分のよき理解者として、得意なこと苦手なことを知ることはもちろん、自分の考え方の癖や、失敗したときの受け止め方の癖を意識するようになった。

おかげで落ち込むことがかなり減った。そして自分のコンディションを調整できるよう、最適な睡眠時間の分析や、効果的なストレスケアを日々研究している。
最近ようやく自分の取り扱い方がわかるようになってきた。自分自身への解像度を上げ、理解度を深める。そして自分や相手に寄り添えるようになると、大人になったと感じる。

違う道を進むことで、少しずつ、なりたかった大人になるのかも

小学生の頃に思い描いていたような、完璧な生活を送れているわけではない。けれど、毎日笑顔で過ごせている今の生活は充実している。そして、毎日笑顔で過ごせているところは、どことなく母に似ている。
「私は母のような大人になれない」と、落ち込み、諦めた。そして、違う道を進んでみた。紆余曲折した道を歩んだけれど、私はなりたかった大人になれているのかもしれない。

私は今日も少し大人になった。自分と大人との距離感を認識することができたのだから。
自分と母との関係について考えられたから。
明日もきっと新たな自分を知って少し大人になる。毎日少しずつ小さなことを積み重ねて大人になり続けるのだ。