上京をしてもうすぐ9年目が来る。そして、4年制大学を出たから今度の春で社会人歴は5年目になってしまうような年頃の、26歳の、今の私の財政は決して豊かとは言えない。
それは単に、私の月々の給料が高くないからなのと、そんな状況下での涙ぐましいか、もしくは淡々とか、粛々とした「節制」というものが出来ない性質だからである。
我ながら……情けない。同級生と比べようと比べまいと、この貧しさは惨めである。だが「可哀想」だとは思わない。すべて己のせいなのだから。

個人経営の飲食事業では「売上」が実力となり、私の稼ぎに比例する

私の今の職業は、職種で言うと飲食業であり、人に説明する時は「個人経営の飲食店の雇われ店長」と話す。
肩書きのあることをわざわざ話したいのではないが、私の働き方や収入の得方を話す上ではいつもこのような説明から入ってしまう。要するに、会社勤めや大手企業の運営する飲食業界の社員ではない、ということを示すためにあのような言い方になってしまう。
私は4年制の大学を卒業する年に、多くの学生がなるであろう就活生というものにはならなかった。就職活動をしなかった。そして縁あって、学生時代から働いて、現在も働いている仕事の雇い主とこれからも仕事をしていこうということになり、他にやりたいことや、出来ると思えることもなかった私はそのまま私を求めてくださる世界へと足を踏み入れたのだ。

他の業界のことはよくは分からないが、私が身を置いているこの業界は実力社会である。この実力というのは、飲食業であると料理の腕か、と思われるかもしれないが、それも勿論そうだがもっとシビアに率直に言うと「売上」が実力ということである。
少なくとも、広い飲食業の中の、個人経営の事業では。私の月の稼ぎは、売上で決まる。完全なる歩合給をとっている。これは良くも悪くも、すべて自分次第。吉ともなり、凶ともなる。今のところは凶の方ばかりだ。

楽ではない稼ぎ方、少ない収入だが、「節制」が私は出来ない

つまり、現在の社会人4年目の終わりの26歳の私が貧しいのは、本当に私のせいなのだ。
ここ数ヶ月は巷を騒がせているコロナも関係しているから、そのせいでは?と思ってくれる人も、きっと多いとは思う。けれどコロナがあってもなくても、ほぼ100%自分の努力次第で如何様にも稼ぎ方を変えられるフィールドにいながらも、それを生かし切れていないのは私自身の問題であると思っているからである。

この仕事に関してのことはまた改めて考えようと思うが、では、その決して楽ではない稼ぎ方をとり、少ないながらの収入で豊かに感じることが何故出来ないのかと思い至る。初めに述べた、淡々と粛々とする「節制」が私は出来ないからであろう。
20代後半の社会人は、月々の収入が一定であろうとなかろうと、後に出来るだけの豊かな蓄えをしようと心がけているものだと思うのに、私はそれを自分に対して思うことが出来ない。
欲しいと思ったものを金額次第ではすぐに買ってしまうし、買えば気持ちは一時的に盛り上がるものの、生活の役には立たないものばかりを買っては部屋に溜めている。月の「○○費」はいくら、と決めた中で遣り繰りしていくことなど、ずっとしていない。

結婚も縁遠いと来ている私の人生は、お金とも縁遠いままなのだろうか

結婚や交際をあまり絡めたくはないが、とてもじゃないが誰かと家計を共にして生活してなど行けないと思ってしまうほど、人に誇れる遣い方は微塵も出来ていない為に、益々お嫁には行けないなぁ、とまで考えてしまう。
10代の頃、20代はもっと豊かで、スマートなお金遣いが出来るものだと思っていたのにもう20代も折り返した、四捨五入をすれば30の私は学生のアルバイトのような稼ぎぶりで、子どものような遣いぶりだ。

メイクに縁遠く、それ故にオトナの女にも縁遠く、結婚にも縁遠いと来ている私の人生は、お金とも縁遠いままなのだろうか……。
それは本当に困るし、とても恐ろしいことだ。お金がすべてではないとも思うが、こればかりは現実的には、あるに越したことはない。お金ばかりを求めていたくはないが、ない故の惨めさは出来ればかかえたくない。
金銭的な貧しさは、精神的な貧しさと結び付きそうだと、近頃薄々気付いている。それも、避けたいことだ。

またお金のかかる人間ではいたくないが、お金を大事に出来る人間ではありたいと、社会人4年目の終わりの貧乏な私は願うのだ。金運の神様にではなく、もっと諸々のその他たくさんの運を己で掴めるように、と。