会社から認められることで、生きる価値のある人間なのだと思えた

わたしは普通の人間だ。
特別に容姿が優れているわけでもない。学校の成績も普通で、数学は大嫌い。運動もめっぽう苦手。わたしは特技も特別な才能も何一つない平々凡々な人間で、何においても自信がないのだ。
だから自分が価値のある人間だとは到底思えない。そんなわたしは会社から認められることで、生きる価値のある人間なのだと思える気がしていた。

大学卒業後、そこそこの大企業で事務として働き始めた。元々完璧主義な性格のため、全てを完璧にこなすために必死に仕事を覚えた。
時には深夜までパソコンの画面を睨み続けたこともあったし、メールを打ちすぎて腱鞘炎になったこともあった。いわゆる社畜状態である。
しかし、そのおかげか取引先からの評判も良く、上司からも高く評価された。
気持ちがよかった。何に対しても自信がなかったのに、周りがこんなにも評価してくれたことに快感を覚えた。
社会人になって以降、仕事が人生の全てになっていたわたしにとって、会社からの評価だけが生きがいになっていた。

完璧を目指してもうまくいかず、自信がガラガラと崩れていく

入社から4年後、営業部署への異動が決まった。これまでの業務が評価された結果の抜擢だ。「期待しているよ」という上司からの言葉は、心地が良い響きであった。
大丈夫。わたしはしっかり期待されている。だからちゃんと価値のある人間なんだ。そう思えた。

営業部署でも、わたしは完璧を目指した。しかし、うまくいかなかった。
今までとは違う仕事内容。数字の苦手なわたしは利益の計算や見積もりの作成が上手に出来ない。何時までやっても与えられた仕事を終えることが出来ず、取引先としっかり商談する余裕すらなかった。
わたしは、会社の期待に応えられていないことに嫌でも気がついた。事務として業務していた頃には自信を持てていた日々の生活が、ガラガラと大きな音をたてて崩れていくのがわかった。

異動して3か月が経つ頃には、眠れなくなった。会社からの期待に応えられず、自分が価値のない邪魔な人間だと思い知らされたようで絶望していた。
街を歩いても、わたし以外が全員輝いて見える。無能なのはわたしだけなのか。こんなことなら、わたしなんていないほうがマシなのではないか。
そんな風に考えると、生きることすら嫌になり始めた。

「頑張らないで」「休んで」。彼の言葉を実践し、肩の力を抜いていく

そんな時にわたしを救ったのは、交際している彼の言葉だ。
「頑張らないで」
「休んで」
わたしが仕事に心をすり減らしている様子を見るたび、彼は何度もこの言葉を言った。
完璧主義のわたしにとって、頑張らないことは逆立ちで富士山を登頂するくらい難しい事だった。しかし毎日少しずつ肩の力を抜き、「頑張らない」で「休む」ことを意識していくうちに、仕事と自分の距離感を客観的に見ることが出来るようになってきた。

学生の頃は誰もが得意なこと、不得意なことがあるのが当たり前だった。
理科は苦手だけど国語は得意な人。テストの点数は良くないけど部活では大活躍する人。みんな違って、みんな良かった。
しかし社会に出ると、仕事が出来るか出来ないかで分類され、評価される。一日のほとんどをそのような環境で過ごすことにより生きる世界が狭まり、仕事が人生の全てになったような気がしてしまう。
その結果、会社で評価されない自分は価値がないと思い込んでしまう。

自分の人生は仕事が全てではなく、自分がいなければ意味がない

もちろん仕事は大切だ。しかし、自分の人生は仕事が全てではない。
会社はわたしがいなくても潰れないし、すぐに代わりを見つけるだろう。しかし、自分の人生は自分がいなければ意味がない。
仕事での評価に心を支配されて生きる意味を見失うより、自分のしたいことや出来ることに目を向けて生きていきたい。
昨日より今日、出来ることが増えれば自分自身を褒めてあげればいい。完璧な人間なんていないのだから、出来ないことがあっても落ち込む必要はない。出来ないことに対して努力が出来たときは、自分を盛大に褒め称えてあげればいいのだ。

そう気が付いてから、ずいぶんと心が軽くなった。
他人が期待した結果を出すことが出来なくても、気にする必要はない。人間は皆ありのままでも、十人十色の価値があるのだから。