海老フライ、ハンバーグ、オムライス。お子様メニューが大好きだった。
それは高校生になっても変わらず、お寿司は必ずわさび抜き。唐揚げにもレモンは要らない。カフェラテすら、コーヒーの苦味を感じて飲めなかった。

食事のときだけは「お子ちゃま」。だけどある日、わさびを口にすると

学生時代の友人からは「落ち着いている」「大人っぽい」と言ってもらうことが多い。素直に嬉しい。
しかし食事のときだけ、私は「意外と子どもっぽいね」と言われる。親しい友人たちの中では、私の注文にみんなが「お子ちゃま〜」と揶揄うまでがお決まりのパターンだった。
一人だけわさび抜きのお寿司を頼んだときは、わさび入りのエンガワをもぐもぐ味わう妹に鼻で笑われた。

その「子どもっぽいね」を、実は気に入っていた。なんか、ギャップみたいでかわいくない?
片想いしていた先輩とカフェに行って、「かわいいの頼むね」と言われたときなど、自分のイメージと子ども舌に高々とガッツポーズしたものだ。

それは親戚の集まりでお寿司を食べていたときだった。間違えて、わさび入りのマグロを口に入れてしまった。
瞬間的にわかる。ツンとした香り。うっ、と顔をしかめる。
鼻と目の奥を刺激され、涙が出てくる……はずだった。
これまでであれば吐き出していた、その独特の風味が、いいアクセントとなって、マグロの旨みを引き立てる。あれ?と思ったときには、口いっぱいに香りを感じながらごくりと飲み込んでいた。

美味しかった。
いつの間にか、食べられるようになっていた。

そういえば最近、カフェラテもおいしい。薬味の存在価値に疑問しか抱いていなかったのに、馬刺しの生姜も、豚汁の柚子胡椒も、今となってはなくてはならない。唐揚げの美味しさが100だとすると、レモンをかけると120になる。大学時代は苦手だったビールを、仕事後にグビッと煽るあの感動といったら。

嬉しさと同時に、認められていた「かわいい」がなくなったような寂しさ

おいしいと感じるものが増えるのは、嬉しい。味覚の世界が広がる。なんだか大人になったような気分。
でも、嬉しさと同時に、大切にしていたおもちゃを手放したような寂しさも感じた。苦手な味を食べられるようになって、自分自身で唯一認められていた「かわいい」「子どもっぽい」が、なくなってしまった気がした。

ほかの場面でも、この両極端の感情をよく抱く。
ファーストキスの味なんて話題でキャッキャと盛り上がっていたメンバーで、今は妊娠や結婚について話す。補助輪を外したばかりの自転車で走った川沿いを横目に、他県まで車でドライブする。お泊まり会の必須アイテムだったコーラとポテチは、梅酒と柿ピーに変化した。
私たちは成長したのだ。見える、行ける、知っている世界が広がった。「いやぁ、私ら大人になったよね」なんて話しながら感慨深くなる。
同時に私はひっそりと、「知らない」「できない」が少しずつ減っていく悲しさをおぼえるのだ。

「知らない」「できない」を絶えず減らさず増やすためには

23歳。とりあえず私は「大人」らしい。もっと「大人」の人たちからすれば、23歳で悲しいなんて語ってるんじゃないよ、と思われるのだろう。
実際、まだ知らない世界や、できないこと、知った気になっているだけの現実がたくさんあるのだろうと思う。コーヒーだってお寿司だって、未知の味はきっと、まだまだたくさんある。

「知らない」「できない」が減っていくのが悲しいのなら、絶えず増やしていくしかない。そのためには本当の意味で世界を知って、その先の途方もない「知らない」の存在を体感するしかない。

自分に問う。他人から聞きかじっただけの話を実体験のように捉えてはいないか。ひとつできただけで、全部をできる気になっていないか。
なんとなく知った気になっている事柄について、もう少し深く勉強してみよう。わさび入りのお寿司が食べられるようになったのなら、他にわさびが合う食べ物を探してみよう。

そうして、「知らない」をたくさん抱えた、「知らない」自分にワクワクできる大人になりたい。