世の中には『友チョコ』という風習がある。社会人になれば自然と消滅したあの文化は、友達確認の儀式であり、相手の気持ちを炙り出す、今となっては恐ろしい文化だったように思える。
チョコのパターンは、予想できたか、そうではないか
「チョコ交換しようね」と、2月の教室では女子たちの会話が聞こえてくる。もちろん私もその中にいて、当然のようにそれに了承する。
声をかけてくれる人たちはまだ優しい。「私たちって友達だよね?」と直接的に言わないだけの友情確認が、その言葉にはあるからである。
友情確認などと言うと聞こえは悪いのだが、10代女子の何気ない日常会話と思えば、専らかわいらしい。
問題なのは、当日にサプライズでもらえるであろうチョコの数だ。このサプライズチョコのパターンは2つ。予想しているチョコと、そうではないチョコ。つまり予定外のチョコだ。
前者のチョコは、約束をした友達以外に「この子にはもらえるだろう」と想定できるチョコである。
普段よく遊ぶ友達や部活の同期、明確に人の名前を挙げて数を数えることができる。所謂暗黙の了解になってしまうのだが、一般的な友情関係なら、これが普通であるのではないだろうか。
後者のチョコは難しい。
同じ班になったことがあるクラスメイトや友達の友達。友達と断言するには少し距離があるが、まったく見知らぬ人でもないその人のチョコを用意するのは難しい。
しかし、中にはクラスメイト全員に渡す子、話したことのある子にとりあえずと配り歩くワイルドな子だっている。その子たちにとってはもはやお菓子を作る、配れることがメインであって、それが何チョコであるか、お返しがもらえるかは興味の対象外なのかもしれないが、もらった側は否応なしに気にせざるを得ないのである。
彼女から来たチョコは予定外。お返しは義務になり
何歳の頃だか忘れてしまったが、クラスメイトから予定外のチョコをもらったことがある。特別仲が良いわけでもないクラスメイト。距離が近いわけでもない彼女に、私はチョコを用意していなかった。
しかしもらってしまったからには返すべき、と当時の私には至極当然の考えが浮かび、手元にあったチョコレートを彼女に渡した。
しかし、そこまで多くチョコを用意せずにいた私。実際に渡したかった友達にチョコが足りず、ホワイトデーに多めにお返しをあげる約束でなんとか許してもらったのだった。
私が彼女に渡したチョコは、彼女のものが手元に来た瞬間に友チョコから義務チョコに切り替わって彼女の手にわたった。さて、彼女から来たチョコは一体何チョコだったのか。
今はもう連絡先も知らない、なんなら顔は思い出せても名前すら思い出せない彼女に聞くすべはないのだが。
チョコレートを見ると今でも思い出す。年に1度のあの戦いを
チョコレートに想いを託そう。チョコレート会社はこぞってこの季節にそんな言葉を載せる。あの時の私の義務チョコに想いをつけるなら「返さなきゃ」のひと言に尽きるのだろう。
大人になった今、義理チョコ文化のない会社にいる私にはバレンタインは特別大きなイベントではなくなった。
しかしチョコレートの商品が増える季節になると思い出す。女子たちの、年に1度の祭典と表には見えぬ葛藤のあの戦いを。