思いがけず、恩師の個展の予告を目にした。
数年来、メールを送ってもなしのつぶてで、ただお元気らしいということのみ聞き知っていた。どうされているか気になっているが、拒まれているならばどうしようもない。
最後にお会いしてからもう5年も経つ。あの時は腹を割って話す準備が出来ていなかったし、ゆっくり話せる状況でもなかった。またいつでも訪ねられると思っていた。
現在の世情では都会へ行くのにも躊躇がある。しかしそれ以上に、これが先生の動向を目にする最後の機会となるかもしれないことのほうが重要に思われた。いずれにせよ、先生が在廊される日時を知らねばならないだろう。返事があれば万難を排して行く、と決めて短いメールを打った。
案の定、返事は来なかった。メールが読まれていないのか、無視されているのかも判らない。何故こうなってしまったのだろうか。

先生の荷物を持ったことをきっかけに、研究会に参加するようになった

大学1年生の我々の目に映る先生は、絵に描いたような変わり者の大学教員だった。いつも遅れて来て、学生には何らの興味もなさそうに授業をし、終わればあっという間に講義室からいなくなる。
そんな先生を呼び止めるのには苦労した。先生が脚をお怪我されていた時に、荷物を持ちましょうかと声を掛けたのを喜んでくださっていたと、後に配偶者の方から聞いた。先生の研究に興味があると言った私に、先生はいつでも研究室に来てもよいと仰り、研究室の文献を自由に手に取らせてくださった。大学院の授業にも出席させていただくうち、私はどこに出て行くのも恐れなくなっていった。

研究会にも呼んでいただいたが、著名な先生方や博士課程の院生の方々が丁々発止の議論を繰り広げる、未知の世界に目の眩むような思いだった。懇親会にも残るよう言われ、未成年(当時)1人、身を縮めるようにして座っていたが、先生は容赦なく性的な冗談を交えつつ私のことを皆に紹介したので、驚きと困惑と照れとの中で鮮烈な洗礼を被った。

「ぼくのお気に入り」その一言に舞い上がる私は、すぐに釘を刺された

それからほどなくして、研究室の片付けを手伝った私を家に招き、先生は自身の妻と私、3人の晩餐を用意してくださった。
普段は穏やかに話す先生だったが、お酒が入ると語気が鋭くなり、自身の学生時代や研究者への道についての語りや、私の性格や欠点に関する指摘など、滔々(とうとう)と話し続けられた。私が必死で涙を堪えていてもとどまることを知らない。
かなり酩酊の進んだ様子の先生に、何度か、「○○ちゃんはぼくのお気に入りだから……」と言われた。

それは衝撃だった。1年生の私から見た大学教員は雲上人のような存在である。そういうことに舞い上がってしまう私の危うさも、先生は正しく見抜いておられた。その後も何度かご自宅へお伺いする機会に、「教員は人生経験も豊富だし学生に対してサービスするのが仕事だから、そばにいて楽しいし楽かもしれないし、特に女の子だからちやほやしたりデレデレしたりする男の教員も多いけど、面倒でも同年代の人と付き合って恋愛もしないと」、と釘を刺された。

他の教員と不倫。私は導いてくださった先生を裏切った

それにもかかわらず、私は他の大学教員と不倫関係になってしまっていた。ある時、先生に、婚外恋愛についてどう思うかを問われ、私は思わず、「気がついたらそうなってしまうことって、ありますよね」と言ってしまった。
先生はすべてを覚ったような顔をしながらその時は何も問わず、後日2人きりの時、手短にそのことを話題にされた。私は事実を認めた。

その後、先生からのメールは減っていった。呼び方も、名前にちゃん付けではなく、苗字の呼び捨てになった。もっとも、多忙のためか必要な返信も来ないという、先生に対する愚痴は何度か耳にしたので、そもそも連絡にまめな人ではなかったのかもしれないが。私自身の忙しさと後ろめたさもあり、ゆっくり話す機会もなく大学を卒業した。

卒業してすぐの頃、1度会いに行った時には、先生の助言通り、進学ではなく就職を選んだ私を言祝いでくださったが、他の訪問者もあって通り一遍の話しかできなかった。それきりである。

今の私があるのは良くも悪くも先生のお蔭だ。先生は私のことをよく理解し、ストイックに愛し導いてくださったと、はっきり気づいた時にはもう遅かった。とりわけ道に迷った時、先生に助言を乞いたいと今でも思う。
もし先生に会えたなら、何を話しただろうか。まずは先生を失望させてしまったことを謝りたい。私のことをどう思っておられるのか聴きたい。その上まだ甘えることが許されるなら、これからの人生について相談したい。