子どもの頃、祖母は私の皿の3枚のたくあんに、ひとつ追加した

「3という数字は、身を切るに繋がるからやめなさい」
そう言って祖母は、私のお皿にたくあんをひとつ、追加した。4枚になった。
祖父お手製の塩辛いたくあん。大好きなそれを、低学年の小学生だった私が美味しく食べられる最大の数が3枚だった。だからいただきますと同時に、すぐさま3枚とったのだ。
しかし、お皿に盛られてしまったのなら食べなきゃいけない。最後の一枚に取り掛かる頃には、お茶碗はとうに空っぽ。おかわりをするには、お腹が膨れている。
仕方なくそれだけを口に含んで、咀嚼したらすぐに牛乳で流し込んだ。それでも後味に、塩気が残った。

祖父母の家でご飯を食べたときの記憶である。最近まで忘れていた、取るに足らないこの出来事に今の私は縛られている。

思い出したのは、トマトを切っていたとき。6等分に切り、普段なら子ども用に2切れ、小皿に盛り付ける。我が子はトマトが好きなようで、真っ先に食べてくれる。このところ成長して食べる量が増えたから、今日は3切れお皿に盛ろうかな。そう考えたところで、「身を切る」が蘇ってしまった。

ばかばかしい、と笑い飛ばそうとしたが出来なかった。まな板には半分に切られたトマトがある。それを3つではなく4つに切り分けた。
科学的根拠も何もない、訳の分からないことをなぜ自分がしたのか。
それ以来、子どもへの食べ物を用意する際、3を避けるようになった。一度意識してしまうと抜け出すことが難しい。3を見つけると、例えばブロッコリーが3房だと、ひとつをテーブルナイフで切ってしまう。
もはや強迫観念となっている、「身を切る」の呪い。

「3」を与えたせいで…。そう考えると、呪いを振り切れない

最初は自分が信じられなかった。なぜ、このような意味のないことをするのか。頭の中の理知的な部分は、必要性が皆無であると主張している。
自身に困惑しつつ、行動が変えられない理由を考えた。きっと、根底には子どもを思う気持ちがあるから、なかなか振り切れないのだろう。
あり得ないことだけど、3つを与えたせいで怪我でもしたら。一生自分が許せなくなる。仮に怪我をしたとしても、それとは何の因果関係もないのに。与えなければこの子は怪我をしなかったと信じて、罪悪感と後悔を背負い込むのだ。私は自分がそういう人間だと知っている。

そして祖母も孫を思って、たくあんを一枚お皿に入れたのだろう。愛情深く接してくれた、かつての記憶がそう言っている。私のことが大好きだから、迷信じみたことでもしてしまったのだ。

亡き祖母に伝えたい。たくあんの記憶を思い出にできるように

祖母は私が大学生のときに、あの世へ逝ってしまった。もし会えるのならば、少しだけ物申したい。
愛してくれてありがとう。
そういえば、3つのものを食べるのを「身を切る」って嫌っていたけど、私は何の問題もなく元気に成長したよ。

そう表明することで、この呪いから逃れられる気がする。もう叶わぬことだけど。せめて代わりに、今度実家へ帰省したら、お仏壇で手を合わせて伝えたい。私は生きているのだから、全く訳のわからぬ呪縛を断ち切らなくては。そしてたくあんの記憶を、心配性の祖母との微笑ましいエピソードのひとつに昇華したい。