私のいま一番欲しいものは、生きる意味だ。
生きる意味を見いだせないまま、なんとなく生きている。そして、死ぬほどの決定的な理由を見つけられないから死んでいない。
そんな私の魂は生きているのか死んでいるのか、わからない。生きることにも死ぬことにもどっちつかずの自分はまるで、現世をゆらゆら漂う幽霊のようだと感じる。
他人から評価されることが「生きる意味」だと疑わなかった
大学で心理学を専攻する私は、心理療法の1つである認知行動療法の授業を受けていた。そこで、行動分析学で行動を定義する際に用いる「死人テスト」を学んだ。
要約すると「死人にもできることは行動ではない」という話だ。「〇〇しない」「〇〇される」などは死人でも可能なので、行動ではない。また、寝ている、座っているなどの状態を表す「〇〇している」も死人にもできることなので行動ではない。
そして気がついた。
私の掲げていた生きる意味は、死人にもできることだった。
私の生きる意味は、「褒められたい」「認められたい」など、他人に「〇〇される」「〇〇してもらう」など受け身で具体性のないものばかりだった。
他人から評価されることが生きる意味だと、疑うことなくその日までは思っていたし、それが当たり前だと思っていた。
だが実際、授業を受けてみて、私の掲げていた生きる意味は死人にもできることだったという、何とも皮肉な話に思わず笑いがこみ上げてきた。そして、いまを生きる人間なのならば、生きている人間にしかできないことを生きる意味として掲げたいと思うようになった。
いつ手に入るかわからない。生きる意味を探すために生きることにした
だが、20年以上死人のように行動せず生きてきた私には、生きている人しかできないことを見つけることが難しかった。
私はいわゆる自主性がない人間の代表例のような存在で、数少ない行動した経験も、「誰かに言われたから」「やらなきゃいけないから」など、自分で考えて行動していなかった。言われた通りのことはできるけど、それ以上のことができない。特段したいこともないし、これじゃなきゃダメというこだわりもない。
これでは、よくて操り人形、悪くて死人だと悟った。操り人形にしろ、死人にしろ、私には魂がなく、生きていないことになる。自分は何のために生きているのか、果たして本当に生きているといえるのか、わからなくなった。
いま私は生きる意味を探し求めている。
それは、明日見つかるかもしれないし、来月見つかるかもしれない。大学を卒業するまでに見つかるかもしれないし、働き始めて見つけるかもしれない。私が思っているよりも遠い場所にあって、おばちゃんになってからふと見つかるものかもしれないし、死ぬ直前に「あっ!」とひらめくのかもしれない。
いま一番欲しい生きる意味はいつ手に入るかわからない。だから私は、当面の間、生きる意味を探すために生きることにした。
死人には、生きる意味を探せない。もう魂の抜けた人間にならぬように
そうぼんやりと思い浮かべながら、いつ手に入るかもわからない欲しいものの話を文字に起こしてみた。何気なく書いていたことを眺めるように読み返した。すると、「あれ?生きる意味を探すことは死人にはできないことなのでは?」とひらめいた。
欲しくて欲しくてたまらなかった生きる意味が、頭の中に乱雑に並べられた言葉の中に埋もれていたことに私は気が付いたのだ。
私はすでに生きている人間にしかできない、生きる意味を手に入れていたのだ。生きる意味を探すことは死人にはできない。探求することこそが私の生きる意味だったのだ。
今日、私は別れを告げた。長年私の中にいた、操り人形で死人だった自分に。幽霊のようにさまよっていた自分に。
私は誓った。二度と魂の抜けた人間にならないようにしようと。私はこれからも生きる意味を探求し続け、自分で考え行動できる人間でいようと。