欲深いと自覚のある私でも、一番欲しいものを口にするのは勇気がいる

ウェブサイトや雑誌で対談を読んでいたりすると、時折、「今時の若者は欲がない」なんて著名な作家さんが嘆いている記事に出会う。
その意見に深く頷きながらも、私は(もし今時の若者の仲間に入れてもらえるのならば)欲深い部類だと思う。
欲しいものや、したいことがはっきりとたくさんあるし、食欲や物欲、性欲といった欲望も強い方であると自覚している。
でも、そんな私でも一番欲しいものをはっきりと口にするのは、かなりの覚悟と勇気がいる。
だってコロナ禍が終わったら、アメリカに行ってクレイジーな絶叫マシーンに乗りたいだとか、もっとお金に余裕ができたら部屋に花を飾れるような生活がしたいだとかそういうレベルじゃない。
自分の本性を曝け出す必要があるからだ。

人生を狂わせるような恋。
欲しいものが何もかも手に入る大金。
どんな洋服でも着こなせる美貌。
世界中を旅して美しい景色を見て、そこでしか出逢えないものに触れたい。
そういうものに憧れていた時期もあったし、奥底にはそんな願望も潜んでいるのかもしれない。
でも、私が今一番欲しいものは、「人生を懸けられるような仕事」じゃないかと思う。

書くことを愛し、ずっと夢見てきたはずだけど、怖くなることがある

10歳の時から約20年間ずっと物を書いて食べていきたいという夢を持っている。
もう29歳。
まわりは子どもを産んだり、仕事で役職に就いたり。
脚本も小説も原稿用紙100枚書こうが何万文字書こうが、三次まで残っても一次で落ちても、誰も何も評価してくれない。
なんの成果も出ていない行為にいったい何時間使うのだろう。
私は20年間も何をやっているのだろう。

いつかもし、夢を仕事としてそれで食べていけるなら何を失ってもそれが私の人生の生きがいってやつになるんじゃないか。
その希望をずっと捨てきれないでいる。
諦めてしまったらラクになれるのに。
私の人生じゃなくなってしまうような気がする。

どうして私は資格が取れれば叶う職業に憧れなかったんだろう。
どうして結婚して子どもがいたらそれで幸せって感じられないんだろう。
今だって充分恵まれていて幸福なのだ。

書くことを愛していたはずなのに問題が山積みで、向き合うことが怖くなってしまうこともある。
会社の行き帰り2時間30分。
いつもは退屈なその時間が、夢中で書いてたら足りなかった。
そういう毎日の積み重ねの中で、やっぱり私は小説が好きだ。と思い直したり。
結果が出なくて応募しない時期でも文章を書かない日はなかった。

二足の草鞋を履けるような人が物書きの時代に、20年夢を見続ける私

挫けそうになると番組やエッセイなんかで今戦っている人たちや挫折しながらも成功している人たちの姿を見たり、言葉を読んできた。
それは女優でも芸人でも何かの企業の社長でもジャンルは何でもよかった。
そういうものをエネルギーにして自分を奮い立たせてきた。

書店に出向いて小説コーナーに立ち寄るのが苦痛だった時期もある。
この中に自分の作品が並んでいたとして売れるのだろうかと思った。
芸人と脚本家、アイドルと小説家。
二足の草鞋を履けるような人が物書きの時代に、20年夢見ながら一足の草鞋も満足に履けない自分に、果たして物書きで当たる未来なんかくるんだろうか。
本当にプロとして通用するような今の時代に求められているものが、お前に書けると思っているのか。
ただお金が欲しいだけじゃないのか。
自己顕示欲を満たしたいだけじゃないのか。
今の環境から抜け出したいだけじゃないのか。
心の底から楽しんで書いてる?
自分に才能ないって認めるのがこわいだけじゃない?
今まで自分が費やしてきた時間や熱が報われないのが嫌なだけじゃない?
まわりに夢宣言しすぎて、20年無駄にしたなんて辛すぎて引っ込みつかなくなってるだけじゃない?

幸せに貪欲で悪いことはない。「なりたい」を抱えたままの人生は嫌

成功している人は自分の好きなことで食べているひとより、自分に向いていることで成功している人の方が多い気がする。
自分で選んだのではなく、たまたま才能を発掘された人たち。
いくつもいくつも勝ち抜いてきた強運の持ち主たち。

そう思うとどんなに熱々なものを注がれても、情熱は簡単に冷めてゆく。
まるで保温機能のない水筒みたいだった時もある。

欲しいものは欲しいと言いたい。
がめついと思われようが、欲張りと思われようが構わない。
自分の幸せに貪欲で悪いことなんて何ひとつない。
諦めるなんて私の辞書にはない。
そうやって本当はいつでも最強に前向きで光を放って生きていたいけれど。

「本当はこうなりたかった」を抱えて私はこれからの人生を生きていたくないのだ。

いつもは楽しく書いていることが多いエッセイだけれど、今は書いていて苦しくて痛い。
でももう少し夢に向かって足掻きながら生きていたいと思っている。