転がるような日々の中で、ふとすべてが止まって見えるような美しい瞬間に出会うことがあります。雪が特別に多かったこの冬。ちらつく雪の中でわたしは、そんな体験に包まれたのです。
何年経っても忘れたくない、そう思えるほどの時間。言葉を超えたその時を、人生でこれから何度味わうことができるだろう。私はそのときの「感覚」をいつも、いつも、欲しています。

憧れを抱きスタートした記者生活も、理想と内実には埋めがたい溝が…

前職は新聞記者でした。地元ではもっとも勢力のある媒体。県民の約7割が購読しているといわれていました。学生時代から、過ちを正し、多様な価値観を創出し、知的に世界を良き方向へ変えてゆく、そんな新聞記者という職業に強い憧れをもっていました。

やっとの思いで掴んだ夢。胸を高鳴らせながら、始まった記者生活。けれども理想と内実には埋めがたい溝がありました。

他のマスコミを「抜く」ために、取材相手に新聞社の要求を強いる毎日。憔悴しきった事件の被害者家族から、無理やりにでも話を引き出させようとする上司。予め用意したセンセーショナルな展開にもっていくため作文をする上司。

「伝えることが正義。正しい情報を速く読者に届けることが使命だ」の正体は、新聞社のエゴとしか思えませんでした。きれいなうたい文句の裏側には、「たとえ相手にどんな思いをさせたとしても他社に抜かれるわけにはいかない。明日の紙面が埋められればそれでいい」……、そんな新聞社の傲慢さと軽率さが横たわっているようにしか思えないのでした。

苦しくて、苦しくて、苦しくて。どうしようもありませんでした。家に帰れば、恋人の前で、嗚咽するように泣きました。24時間、いつ電話が鳴るか分からず、お風呂場にも、トイレにも携帯を持っていきました。出れなければ、立て続けに何度も電話を鳴らす上司もいました。携帯のランプが光ると、体が硬直し、いつしか呼吸さえ乱れていきました。

そして髪も抜けていきました。いつの間にかほとんどなくなり、お風呂に入るたび、指にごっそりとつく髪の束たち。もう辞めよう、そう決めました。

長い夏休みを終え、新しい職場で出会う人たちは、新たな世界に誘ってくれる

あんなに熱を帯びていた新聞記者という職業にわたしはたった3年でピリオドを打ちました。暑い夏の真っ只中でした。適応障害の診断を抱え、なぜか上司に謝罪をして辞めました。

「〇〇さん、こっち、こっちー!」
都内のとある劇場の舞台袖。白髪交じりの男性に手招きされながら、後ろをとことことついていく。瀟洒な巨大タペストリーに、可憐なドレス……。見るもの全てが初めてで、新鮮で、ただただきらきらと輝いていました。

長い長い夏休みを終えたわたしは、千メートルを超える高原の施設で新たな仕事を始めました。そこで出会ったその人はまるでわたしをおとぎの国に連れていくみたいに、新たな世界に誘ってくれるのです。そしてちぐはぐになったわたしのこころを自然にほぐしていってくれたのです。

昨年の12月某日、高原に雪がちらちらと舞う寒い日。都内へバレエ公演の劇場に連れて行ってくれたのもその人。演目は「くるみ割り人形」。雪の精に、金平糖の精に、お茶の精……。天井を突き抜けるように大きくなるクリスマスツリー。キラキラと舞う雪。目まぐるしく変わる舞台芸術の美しさに打ちのめされ、しばし世界が止まっているような感覚に出会ったのです。

純粋に美しいと思った。尊いと思った。
その時にわたしが気づいたのは、「ああ、いまわたしは生きている」という感覚。わたしを生きて、わたしとして目の前のことに夢中になっている。わたしの尺度で感じている。ああ、ここにはわたしがいる。そんな感覚を知ったのです。

雪の舞い散る帰り道にひとり、あたたかな涙が滲みました。

その人はバレエ公演のほかにも、さまざまな場所に連れて行ってくれます。のばらの茂みや、シラカバのはやし。その一つ一つが忘れがたい瞬間で、いつも必ず心に小さな明かりを灯してくれるのでした。

魔法使いさんが、心を包んでくれたから「欲するべきもの」に気付けた

わたしが欲しかったもの、それは、わたしの体で、わたしのこころで感じること。会社や上司が決めた勝手なルールに縛られず、わたしはわたしで生きていくこと。自分自身で世界を捉えていくこと。わたしがわたしでいられる瞬間に出会うこと。

魔法使いのような不思議な力をもったその人が、わたしのこころを大切に包んでくれたから、自由に感じるこころを思い出させてくれたから、ほんとうに欲するべきものに気づくことができたのだと思います。

今、会社のデスクの窓からは、ヤマガラやウソのつがいが愛の巣を探す様子が見られます。足元にはつくしやすみれといった春の花が芽を出し始めました。人生における宝物のような美しい感覚を見つけたわたしは、雪深い冬を越え、たしかに変わりました。

これからまた大きな波に呑まれたとしても、全てが止まってしまうような美しいあの感覚を、なんどでも思い出せますように。出会えますように。

穏やかで、優しいあたたかな風が頬を撫でます。わたしはこの高原で、もう一度、わたしをはじめることにしました。

魔法使いさんに感謝を込めて。