どちらかと言えばかつての私は、もったいない信仰で物を捨てられないタイプだったように思う。
実家を出て1人暮らしをし、同棲し結婚し、収納の大事さを痛感するようになって変わった気がする。

必要最低限の少数精鋭派になった私には捨てられないものがある

男女関係にある相手と別れようと思うと、もらった物を少しずつ捨てていき、いざ別れる時には何も手元に残っていない。
写真なんかも容赦なく、嫌いになると別れが訪れる前にちゃっちゃか処分していく。
恋愛に限らず、人から頂いた物でも、気に入らなければ使わず身につけず、わりとすぐ捨てられてしまうほうだ。

少し前までは気に入っていたけれど、年齢的に着られなくなってしまった可愛らしいスカートや一年に一度も手をつけなかったワンピースを捨てられないでいたけれど、捨てる快感を知ってからはそれもなくなった。
使えるかもと思って取っておいたブランド物の袋や焼き菓子なんかのBOXも、取っておきすぎて収納を圧迫し始めてからは最小限に留めるようになった。
とりあえず取っておく派から、必要最小限の少数精鋭派になったのだ。

そんな私がいまだに捨てられない物は、ふたつある。
ひとつは、小学4年生から大学生まで書き続けた25冊に及ぶ日記。
もうひとつは、人からもらった手紙だ。
このふたつは全部取っておいてある。
日記は実家に置いてある。
祖父の遺品整理と共に自分の部屋の断捨離を行ったとき、日記だけは取っておくことにした。

嘘偽りない言葉が残された日記を開くと、ピュアな自分に出会える

他人に話すと「そんな恥ずかしいもの、よく取っておけるよね」と言われたりもする。
でも、その時自分が感じた痛みや切なさ、あの頃の苦しさ、キラキラした思い出、全部がありありと嘘偽りなくストレートに書き残されていて、捨てる気になれない。
何かに躓いてふとページを開くと、今よりずっと強くてピュアな自分に出会える。
「こんなに前向きだったんだ」とか「こうやって乗り越えてたんだ」とか世間知らずだからこそのでたらめなポジティブで力強い言葉に、背中をぐいぐい押されたりする。
大人になって考え方が汚れた自分を反省できたりもするアイテムなのだ。

手紙はなにかの端切れのメモだろうが、もう連絡を取っていない縁が切れてしまった人の分までも全員分取ってある。
学生時代に出会った人の分は実家に、社会人以降に出会った人の分は手元に置いてある。
あまり読み返すわけでもなければ、懐かしんだり、過去に戻りたいなどとは思わない。
それでも、相手の思いがそこに籠もっている気がして、どうしても捨てられない。
今の関係がどうであれ、その時相手が書いたこと、お互いの間に流れていた信頼なり愛なりは変わらないと思うから、大切に保管している。

大切に取ってあるものには、その人の本質が隠されているかもしれない

恋愛の話になって「元カレから貰ったもので取っておいているものってある?」という質問は何度もされてきたし、何度もしてきた定番の問い。
訊くとその人の恋愛観の片鱗が覗ける気がして割と好きだった。
それと同じで、長年捨てられず大切に取ってあるものには、もしかしたらその人の本質が隠されているかもしれない。

私という人間は、言葉を大事にして生きてきたし、言葉を信じて生きてきた。
これらを捨てることは私の生き方、アイデンティティを変えてしまうことにすら繋がる。
だからこれからも手紙は増え続け、日記は残り続けるのだろう。