私は母親になりたいのだろうか。学生の頃、仲良くしていた友人たちの結婚や出産の報告を見る度に、私自身に問いかける。
中学生の時の友達の報告は、私の価値観では驚くほど早い時期で、想像できない世界の話だった。でも、同じような報告を大学時代の友達から受けるようになると、どうしても私にも同じ選択肢がある事を意識してしまう。
子どもを産むことと母親になることは、私にとっては違う
子どもを産む事、母親になる事。私にとってはこの二つは同じようで全く違う物だ。
子供を産む事。それは、子供が出来てから産み落とすまでの1十月十日、私の中にもう一つの命が存在するという事、そして、その命を守る事だと思う。
そして、母親になる事。これは、私から生まれた、私とは別の意志を持つ命を、その意思を尊重しながら育てる事だ。
世の中では全く異なるこの二つが当たり前のようにセットで語られる。そして、誰もが当たり前のように、いつかはそうなると思っている。でも、私にはそのどちらもがとても遠い経験だ。
もともとのネガティブな性格もあるのかもしれないが、子どもを産むまでの十月十日を耐えられる気がしない。自分の体の変化にも、巷で語られる出産の痛みも、想像するだけで怖くてたまらない。
そうして生まれた意志を持つ命を、自分とは違う命として尊重出来るのか不安だ。出来る限り、優秀に、苦労しないように、楽しい時間を送ってもらいたい。その為に、私が出来る事を全部してあげたい。障害になりそうなものは排除したいし、危険な事は経験して欲しくない。そして、私の出来た事が出来ないなんて許せない。そう思ってしまう。
それも愛の一つの形なのかもしれない。
「母」というだけで絶対の母には、無条件で理解してほしかった
私自身は、母と仲が悪いわけではないと思う。でも、母に無条件に理解して欲しいと思っていた時期がある。
本来は全く別の人格なのに、母というだけで絶対の存在だった。褒めてほしかったし、失望されたくなかった。そんな思いは、私自身が成長して、母とは違う存在なのだと理解して、初めて納得できる形で消えていった。でも、消えるまではすごく苦しかったし、違う存在だと距離を置くことに少しだけ申し訳ない気がしている。
今の私には克服できない様々な不安を乗り越えて、私を産んでくれた事に感謝している。その後、母として育ててくれた事にも、もちろん。
でも、その過程には、母として子どもとして、他人には決して望まないたくさんの期待があった。
私はまだ、特別な絆を持つ誰かを産む覚悟ができない
それだけ、命を産み落とすという事が特別な事なのだと思う。それだけで、特別な絆なのだ。
私が生まれた事は私の意志ではないから、仕方がない。けれど、今の私はまだまだ未熟で、自分の意志でその特別な絆を持つ誰かを産むだけの覚悟ができない。その絆で繋がった誰を自分の分身ではなく一つの意志として尊重する事、すべての障害を排除するではなく見守りながら愛する事が出来るほど、私は大人ではない。
もしかしたら、その過程は今度は私が母として、特別な絆を持つ命と一緒に成長していく過程なのかもしれない。
それでも、私はその大きな一歩が踏み出せないまま。そんな私を許容する社会になろうとしている事を少しだけ嬉しく思う。