「産まないという愛し方がある」というのが、私の結論です。
この先は誰かを傷つけるかもしれないから、私の意思を書いておきます。
まず、今現在障害を持っている全ての人を否定するような意思は持ち合わせておりません。
そして、障害のあるなし関わらず、生まれてきた命は全て尊いです。
以上を踏まえ、嫌な予感がする人はこのエッセイを読まないでください。
障害さえなければ…と考えてしまう日々
始めます。
まず私は障害者です。そしてその障害が遺伝する確率は約70%といわれています。
大学生になるまで友達1人出来ませんでした。何をやっても少し出来ないことが多かったです。頑張って何かをやっても蔑まれ、「やめてやれよ。可哀想だろ」と言われたりもしました。
私はどちらかと言えば生まれてきたくなかった。母に「あなたみたいな素晴らしい母親の元に産まれてくるべきじゃなかった。もっとまともな子がよかった」と連絡したことがありました。つまりは、私は産まれたことを後悔しています。
環境が悪かったかもしれない。運が悪かったかもしれない。でも障害さえなければ普通の子としてある程度の幸せを感じられたかもしれない。朝、強烈な希死念慮を感じなくてすんだかもしれない。フルタイムでも働けるような体力があったかもしれない。
なんで、私ばっかり。
幸福かどうかは当人が決めること。周囲が決めることではない
2ヶ月、生理が来なかった時がありました。確実に妊娠したと思いました。
その時思ったことは「可哀想に」でした。
この薄暗い世の中に、障害をもって産まれてくる苦しみを誰よりもわかっていたから。
私はうっすら堕ろすんだろうなと思っていましたが、周囲は変な祝福ムードが漂っていていました。彼氏は子供が大好きで、まだ若くてお金もない私達なのに、産ませる気満々でいました。みんな馬鹿なんだろうかと思いました。
その1ヶ月後に生理が来て、妊娠していないことが分かりました。心底ほっとしました。
それを機に、今後私は子供に対してどういった態度をもつか考えるようになりました。
まず思ったことは、幸福かどうかは当人が決めることで、私が決めることじゃないということです。障害があるからといって、必ずしも私のように不幸になるわけではない。この世を謳歌している障害者もいます。
謳歌するのは健常者より難しいかもしれないけど、でも、必ずいます。
それがどれだけ障害者にとって誇らしいことか。もし、私の気が変わって子供を作ろうとしたとしても大丈夫な気がしました。
思いがけない言葉。これからも一番大切な人でありたい
私にはパートナーがいます。
そのパートナーと、子供について話し合う機会がありました。向こうの主張は「子供は可愛い。みんな作ってるし。同じくらいの年収でやっていってるみたいだし、いずれは欲しい」とのことでした。
私は心臓に針を刺されたかのように動悸がして、私の主張が受け入れられるか、受け入れられない人なのだとしたら別れるしかないと覚悟を決めて、こう喋りました。
「知っての通り私は障害があって、それはほとんど遺伝する。私は絶対に子供を作りたくない。私が選びたかった道。産まれないという選択肢を、わたしから産まれるはずだった子に託したい。つまりはあなたと私は相容れない。どうする」
するとパートナーは、
「そこまで深刻に考えてなかった。もっと雀ちゃんの思いや思考を聞かせて欲しい。俺はひとつの幸せの形としてパパとママになるって道もあると思ってた。でも、雀ちゃんがそれを選びたくないのなら、猫でも飼って一緒に暮らしていける道を選びたい」
泣いてしまった。
私の思想は誰からも褒められません。だから、パートナーともこれで終わりだと思いました。だから嬉しかった。私の過去や気持ちを汲み取ろうという姿勢が。
これからもこの人の1番大切な人でありたいと思いました。
ここまで読んでくださった方は、私の「産まないという愛し方がある」という過激ともいえる思想について、ある程度は知ってくださったと思います。
誰からもわかって貰えないと思っています。でも、決めたんです。私自身が。それは人生を自分の意思で歩むということだと思うのです。これからもよく考え自分の意思で人生の選択をしたいです。
願わくば全ての人が幸せを自分で選びとることができますように。