大人になっても「演劇をしたい」との思いは譲らなかった

両親からは、我の強い子供だと常に言われていた。
こうと決めたら譲らない。
欲しいものがあったら泣いて、わめいて、相手が折れるまで止まらない。
確かに、小学校に上がるまで、ひとりっ子で周りの大人達に甘やかされて育った分、兄妹がいる家庭よりも、我儘が通るハードルは低かったと思う。
そういう強情さを指して、両親は私のことを我の強い子供だと表現したのだろう。

こうと決めたら譲らない。
両親はそういうが、私自身はそこまで我が強いと思ったことはない。
確かに小学生の頃までは、自分という存在に対して並々ならない価値を感じていた。根拠のない自信に満ち溢れていたから、多少の我儘も悪びれずに主張したんだと思う。
ただ、歳をとる毎に私の中では他人と比べた自分であるとか、様々な挫折であるとかで自己肯定感が徐々に減っていき、それに比例する様にして「私なんてこの程度」と色々な主張を飲み込んで唯々諾々と周りの意向に従ってきた。
例えば誰もやりたがらないような評価もされない仕事とか、面倒臭い係とか、遊びに行く場所とか。
小さいことから大きいことまで、まあいいですよ、の精神で相手に選択を譲ってきた。

そんな中でただ一つ『演劇をしたい』ということだけは変わらず譲らなかった私の軸だった。
演劇をすることが第一優先事項で、それ以外は些事だった。
些事だと思っていたからこそ、それ以外のほとんどを譲ってきたといってもいい。
しかし、このコロナ禍でその軸が大きくぶれた。
相次ぐ活動場所の縮小により、ジリ貧だった俳優活動は閑古鳥。
年齢的なことも考えると、ここから足掻いても大逆転なんてないだろう。
大きくぶれた軸はぶれ続けたまま、そのままブツリと私の中で切れてしまった。
ずっと支えになっていた大きな軸がなくなって、私の生活は主体性のない『譲ったものたち』で溢れかえる様になった。

「お店は私がいないと回らない」と幻想を抱いてすがっていた

軸がなくなり、どうしていいか分からなくなった私は、目の前にあった譲ったものたちの中から手頃な軸を探して、そこにすがろうとし始めた。
手頃な軸とはバイト先の業務のことだ。
とりあえず、今のバイト先でお店のために頑張ろう。
自分が配属されている部署が円滑に回るように努めよう。
そうやって半年、走ってきた。
お店が円滑に回るように仕組みを作ったり、アプリ会員をエリアで一番獲得したり。我ながらよく頑張ったと思う。
そして、やってきた考査の日。
店長から告げられたのは、
「時給下がるよ」
の一言だった。

店長曰く、お店の事務的な作業を頑張ってくれたことは確かに認めるけど、販売店は業績が第一だからね。
アプリ会員を人一倍頑張ったことも、「君の期待値はそこじゃない」の一言でバッサリだった。
なんだか今まで頑張っていたことが一度にどうでも良くなって、ずっと悩んでいた退職の意志と転職活動をしていることを告げると、「それは個人の自由だからね、止めることも出来ないし頑張って」と、これまたあっさり言われた。

転職活動をしている事を言い出せずにいた時、想像の中の私はいつもお店の管理職の人達からもっと強烈な引き止めを受けていた。
でも、実際はどうだ。
辞めたいです。はいどうぞ。
ものの数秒で私の意志は通ってしまった。

私は私の価値をきっと、高く見積もっていた。
私が思うほど、お店側は私を必要としていなかった。
お店のために頑張ってきたつもりだったが、お店にとっての私は唯々善意で動く都合のいい駒だったに違いない。
このお店は私がいないと回らない、そういう幻想を勝手に抱いてすがっていたことに気づいた。
DV彼氏から離れられない女性ってこういう心境なのかな、なんてぼんやり思ってしまった。

自分が決めたことじゃないから、私は悪くないと思っていた

相手に選択を委ねるということは、自分が責任を取らない事だと言っていたのは誰なのだろう。
確かに、友達なり会社なりに言われたとおりにやって面白くなくても、上手くいかなくても、くすぶっても、それは自分が決めたことではないから私が悪いのではなくて、唯々相手に見る目がなかっただけ、私のせいじゃない、と思うことが出来た。

その当時は明確にそう思ってはいなくても、後々考えるとそう考えて自分が安全圏にいようとしたんだなと思う。
主体性なく多くのことを譲ってきたことに対してとめどない後悔が、今わたしに襲いかかっている。