足取りが重い帰り道、空を見上げると丸い月があった

あの日私は、とある曲の真似事をして眠れなかった。
あれはたぶん、社会人2年目の冬だったと思う。珍しく残業をして、街灯の少ない家までの道をなんとか歩いていた。
この日は、なんとなく疲れていた。新人ではない若い女性は、思ったよりも肩身が狭いものなのだと痛感していた日だった。早く家に帰って眠りたいのに、足取りは重く、なかなか前へ進まなかった。
それでもなんとか歩いて、もうすぐ家だという瞬間、私は何故か空を見上げた。そこには、大きくてまるい月があった。

鈍く光るオレンジは、妙に不気味だったのに目が離せなかった。
どれくらいそうしていたかわからない。数分だったかもしれない。ハッと気づいたときには、身体が随分と冷えていて、私はやっぱり重たい足をなんとか動かして家まで歩いた。
無事に家について、いつも通りの生活をした。食事をして、風呂に入り、必要かどうかもわかっていないスキンケアを念入りにして、なんとなく足のマッサージをすると、あっという間に日付はまたいでいた。
明日も仕事だからと、急いでベッドにはいる。本当に今日はなんだか疲れた、とずっしりと沈んでいる心に無理矢理蓋をしながら、ベッドに沈んでいく感覚を覚え私は目を閉じた。

瞼の裏にはっきりと鈍く光る月に、心臓が跳ね上がる

すると、瞼の裏にはっきりと鈍く光る、不気味な月が浮かんだ。
ドクリと心臓が跳ね上がる。パチリと目を開けると、当たり前だけれどそこは自分の部屋だった。
はぁ、っと溜息をついて、今一度体を休めようとベッドに横になるが、先ほどのことで心臓がバクバクと音を立てていて、とても穏やかに眠れる状態ではなかった。

私は仕方なしに体を起こしてカーテンと窓をあけた。部屋から身を乗り出して空を見上げると、やっぱりそこには大きくてまるい不気味な月があった。まるで、魔女でも現れそうな月だなと思った。
ぼんやりとそいつを見ながら私は、とある曲を思い出した。眠れぬ一人の夜に、コーヒーに月を浮かべる歌詞だったと思う。
私は、どうせすぐには眠れないだろうと踏んで温かいコーヒーをいれた。インスタントの真っ黒なコーヒー。特別美味しいわけではないだろうけれど、月明かりを照らすには十分だと思った。

「乾杯くらいしようよ」。私は月に向かってマグカップを差し出す

急いで窓の近くまでいき、身を乗り出してマグカップを突き出す。
月は、浮かばなかった。
あの曲では、コーヒーに月を浮かべ、涙を流し、一人の夜を過ごすはずだった。
「まあ、そう上手くはいかないよな」
誰に聞かれるわけでもない私の声は、ポトリとこぼれ落ちていった。
「乾杯くらいしようよ、もう眠れそうもないんだ」
私は月に向かってマグカップを差し出す。もちろんそいつから何かが返ってくるわけではないから、私は行き場のなくなったカップを自分の口元まで持ってきた。コクンと一口、コーヒーを飲むと、インスタントコーヒーのくせにそれは美味しく感じた。

「お前のせいで今日はもう眠れそうにない」
予想以上に美味しくできてしまったコーヒーに言ったのか、それとも事の発端である月に言ったのかは、私だってわからなかった。
ただ、なんとなく悔しかったからクリーム色のマグカップに入ったそれを丁寧にゆっくりと飲み、そして時折不気味に光る月を見上げながら、「こんな日は眠れないよな」と呟いた。