出産という奇跡につきまとうマイナスイメージの「小話」に怒り

出産は人類の神秘だと思う。それはきっと最高の瞬間だろう。
愛する人との中で芽生えた小さな命は何よりも愛おしく、そして大切な宝物だ。
だから尚更、私は出産という奇跡ににつきまとうマイナスイメージの“小話”に怒りを覚えてしまう。

マイナスイメージの“小話”って一体、何?……と多くの人は思ったかもしれない。
今、このエッセイを読んでいる人の中で、以下の言葉を言われた経験がある人もいるのではないだろうか。

「あなたは川から流れてきたのよ」
「あなたは山から拾ってきたの」
「赤ちゃんはお尻から出てくるのよ」
「赤ちゃんはコウノトリが運んでくるの」

私は主に“川説”と“山説”を言われて育った。
幼い頃の私は親の言ったことを全て鵜呑みにし、「ふーん、そうなんだ……」と気にせずに過ごしていた。
しかし、小学生になった頃、「赤ちゃんってどこから来るんだと思う?」という話題を周りの友達と話す機会が出てきた。
その話の中では「お母さんのお腹の中!」「えー、コウノトリが運んでくるんだよ!」といった答えが多く出てきた。
私はただ一人、「山や川から拾って来たんじゃないの……?」と不安を抱えながら話を聞いていた。
その時、ふと疑問に思ってしまった。

「私は本当に望まれて、産まれてきたのか?」と。

周囲に相談できず、「私って一体何なんだろう」と考えていた

「山や川から拾ってくる」という言葉。
小さい頃は気にならなかったが、だんだん成長してくるとその言葉が心に突き刺さることがある。
「私は愛されて産まれてきたわけではないんだ……」「ただ山や川から拾ってきただけの存在なんだ……」と思ってしまったこともあった。
「普通ならそんなこと、冗談だと思うでしょ……」と感じる人もいるかもしれない。
でも子どもの心は冗談を真に受けやすい。その言葉を単純に信じてしまうことがあるのだ。
その一例がこの私である。

私は母親に「あなたは川から流れてきたの」「山から拾ってきたの」と言われ、そのことをずっと気にしていた。
「山から拾ってきたから、お父さんにもお母さんにも似てないんだ……」
「川から流れてきたから、うちの子じゃないから何をやってもだめなんだ……」といったように、マイナスイメージを抱いてしまうこともあった。
周りに相談したくても“お母さんのお腹説”や“コウノトリ説”が渦巻いているし、担任の先生に聞く勇気もない。
そのため、心の中に違和感を持ったまま「私って一体何なんだろう……」と考えることが多くなった。

わざわざ「小話」を作って子どもを混乱させる必要なんてない

そしてある時、大事件が起こる。
「私はこの家の子じゃないから、何をやってもだめなの!!!できないの!」と家族の前で大泣きしてしまった。
親は「???」とした顔で呆然としているし、私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだし、その光景は言うまでもなく異様だ。

お母さんは「何言ってるのよ!正真正銘うちの子よ!」と言うけれど私は信じることができず、何も言わないお父さんに腹がたって八つ当たりをする始末だ。
結局、親がなだめて丸く収まった訳だが、今でも私は思うことがある。
「出産の話を“作る”ことは子どものためになるのか?」と。

コウノトリが運んできた、山から拾ってきたという以前に、「お父さんとお母さんが愛し合って……あなたは望まれて産まれてきたのよ」と、ただ一言いうだけでいいのだ。
「何をしたら産まれたの?なんで?」と聞かれたら、「それはあなたが大きくなったら話すから」といえばいい。
わざわざ“小話”を作って子どもたちを混乱させる必要なんてないのだ。

私はただわかってほしい。
作られた“小話”で傷つく子がいることを。
子どもはただ、「私は望まれて産まれてきたのか」「愛される存在としてこの世に来たのか」を確認したいだけなのだ。
だから「赤ちゃんってどうやって来たの?」という質問に深い意味はない。その質問の意図は、ただ自分が愛される存在であると認識したいだけ。

出産を機にこのような問題に遭遇する人は多いかもしれない。けれど、子どもに聞かれたらぜひこう答えてほしい(強制ではないし、言うのも個人の自由だけれど参考までに)。

「子どもがどうやってできるかは、すこしあなたが大人になったら話そうね。
でも、これだけは言わせてほしい。
あなたは何よりも尊く、そして愛おしい存在なの。
私のところに産まれてきてくれてありがとう」