眠れないのか。眠らないのか。そんな日が私には時折やってくる。
その理由はいつも同じ。涙を流す時間をわざと設けるためである。

”涙活”という言葉が流行ったのは、何年前のことだっただろうか。実際にはどのくらい流行っていたのか、はたまた流行るまで達していないのかわからないが、ずっと前からあった言葉のように感じる。
その言葉の通り、涙を流すための活動。わざと涙を流すことで心をリフレッシュさせる効果があるとかなんだとか。

ラストシーンから環境の変化まで。私の涙活は「終わりの妄想」

泣けると話題の映画を見たり、感動もののバラエティを見たり、人によって手段はさまざまだと思う。その中でも私が”涙活”のメインにしているのは”終わりの妄想”である。

終わりと言ってもさまざまだ。イベントのラストシーンから、何かからの卒業といった環境の変化も最後は終わりに含まれる。

たとえば、アイドルの卒業コンサート。今日でもうアイドルとしての彼・彼女に会えなくなるという事実だけで十分泣けるのだが、その終わりは推しであろうがなかろうが情緒を刺激される。
数年間積み上げてきたアイドルとしての地位。メンバーやファンとの絆。たくさんの思い出。それらの集大成としていったい何を語るのか。最後の曲に何を選ぶのか。涙を流すアイドルもいれば、最後は笑顔でと決めているアイドルもいると思う。
少なくとも既に卒業したアイドルの数だけ違うラストがあるのだから、妄想などを頼りにしなくても内容には事欠かない。

たとえば、結婚式。新たな始まりの瞬間ではあるが、この式の最後も涙なしでは見られない。
友人の結婚式の後には、自分だったら……などといつ来るかわからない自分の式を妄想してしまう。七五三の時には涙腺が緩んで、親に「ありがとう」を面と向かって言えなかった私だ。きっとヘアメイクさん泣かせの式になってしまうと既に確定しているくらいには、涙を流すと思う。
新婦が親に贈る言葉を自分ならどう紡ぐか。何から伝えようか。自分の式を挙げられる日までこの妄想は続くことだろう。

自分の世界の中でなら私は無敵だし、世界を意のままに操れる

日々訪れる多様な終わり。感情を揺さぶられるそれに触れたくなった時、私はつい眠る時間さえも使ってしまう。

自分の世界の中でなら、私は無敵だし、世界を意のままに操ることができる。
アイドルは翌日の朝のニュースで切り取られても泣けるような感動的なラストを飾るし、その周りのメンバーだって思いがけないサプライズを仕掛けてくる。
結婚式だって私は泣かずに最後まで言葉を届けて、両親はそれにきっと涙を流してくれる。ある種、この妄想は私の理想の終わりを具体的に表現したもの、といえるのかもしれない。

もちろんいつだってハッピーエンドとは限らない。それでも、現実よりもわかりやすいイベントがあって、ハプニングがあって。小説やドラマのような世界を心のどこかで期待している自分に気付く。
今夜、やっと眠りにつけたとき。叶うならば、この妄想の続きを私も想像できないような世界で見られればいいと思うのだ。