私は今週、30歳になる。
だからこれが現状では、私が「かがみすと」として書ける最後のエッセイだ。
一週間もしないうちに私が何か大きく変わることは無いと思うが、周りの私を見る目が30歳を境に大きく変わるのだろうか。
それはまだわからない。だって、30歳になったことが無いから。
30歳を過ぎると、そんなに人生って変わるのか?だからみんなアラサーだ、なんだと言って30を迎えることを怖がるのか?もう若いと胸を張ることが出来る年齢ではないから、手垢の付いたような発想しか出来なくなるから私はここに投稿する資格を失うのか?
そんなことを考えながら今、この文章を書いている。
夢と現実のギャップを感じたコロナ禍で、かがみよかがみに出会った
私が「かがみよかがみ」に出会ったのは、コロナが日常になり始めた2021年の頭の事だった。
コロナは長年見ないようにしてきた夢と現実のギャップを、否応なく私に突きつける。このまま夢見る夢子ちゃんを続けていても、俳優としていきなり売れることは無いし、コロナが拍車をかけたリアル店舗の集客不足も、いくらコロナがあけたってネット通販が無かった頃の様には戻らないだろう。
夢も叶わなければ生活が楽になることも無い。
現状を変えたくて、転職をその一つの選択肢に考えていた頃だ。
所謂なんちゃってサブカル女子だった私の転職希望は、クリエイティブ職。
当初一番閲覧していたのはライティングのお仕事だった。
最近流行りのトラッキングの影響か、各種SNSの広告も転職や副業が占めていて、その中の一つが「かがみよかがみ」だった。
テーマに沿ってエッセイを投稿し、当時は採用されれば1000円分の謝礼が貰えた。
書くことには自信がある。コロナ禍の休業も相まって常時金欠状態だった私は、「謝礼」という言葉に目が眩んでエッセイを書き始めた。
賞なんていう華々しいものに選ばれることは無かったけれど、採用された!ということが自信になり、私は2本、3本と続けざまにエッセイを書いた。
自分のエッセイのタイトルをTwitterで検索。エゴサーチを試す
大病や家庭内不破、不倫、壮絶なイジメ、借金、敢えて悪い言い方をすれば、いかにも話題性のある境遇を持たない平々凡々な生活を送ってきた私は、毎週毎週LINEに届くテーマに沿う様に、いくつかの出来事をいろんな角度から切り取って、成形して、擦って擦って擦りまくった。
ある物は採用され、ある物は不採用だった。
今数えてみると、26本が採用されてHP上に掲載されている。
よくこんなに書いたものだと思うし、こんなにも拙いエッセイを採用してくれたご担当者様本当に有難う御座います、という思いで今はいっぱいだ。
先日、そんな26本のうちの一本が、注目の5作に選ばれたと連絡があった。
正直、謝礼目当てということもあり、これまで自分が書いてきたエッセイへの他人からの評価なんて気にもしていなかった。
気にもしていなかったが、それでも評価されたということは嬉しくて私は浮足だった。ちょうどコメント機能が追加されたことも重なって、HPに掲載された自分のエッセイページに飛んだ、多分エッセイを投稿する様になってはじめて。
期待を持って飛んだ自分のエッセイには、当然といえば当然だが、コメントなんてひとつも無かった。小さな落胆と共に、そりゃそうだよね、と自分を納得させつつそれでも意地汚く私は私のエッセイのタイトルをコピーしてTwitterの検索欄に貼り付けた。所謂エゴサーチというやつだ。
もちろんそんなことをしたって結果が変わるとは限らない。
限らないが、やらずにはいられなかった。
エゴサーチした私の目に留まる、悪意ある投稿。咄嗟にブロックした
何件か繰り返していると、仕事中に感じた憤りの記事に、共感のコメントを付けてリツイートしてくれている方がいた。
私も気になった呟きなどをリツイートしたりするが、コメントをつけてリツイートするなんてよっぽどのことが無ければしない。
リツイートしてくれたこの人の琴線に何か触れるものがあったんだなと嬉しくなった。
嬉しくなって、私は26本ある自分のエッセイタイトルを一つ一つ遡りコピーしては貼り付けていった。
コメントが無く、ただリツイートしただけのもの、エッセイへの共感。
私の知らないところで、思っていたよりも多くの人に私のエッセイは読まれていたんだなぁと、なんだか感慨深い気持ちになっていた私の手は、とある引用ツイートを目にして止まった。
「こういう人見ると下には下がいるんだなって安心するw」
それは、なかなか上手くいかない転職活動への不安と不満を綴ったエッセイに対するコメントだった。
「下には下がいる」そのフレーズにびっくりしてしまった私は、咄嗟にその人のホーム画面に飛んでブロックボタンを押してしまった。
呟きが表示されなくなった画面を見ながら、さぁーっと体温が下がっていくのを感じる。
数行の呟きに打ちのめされながら、公の場で発言するとはこういうこと
これまで、公の場で表現活動をしたことなんて山の様にあった。
だけど、舞台公演は殆ど端役ばかりで、そもそも誰かの印象にも残らず、Vtuberをしていた頃は自分に甘い囲みしかいなかった。
自分に対する赤の他人からの混じり気なしの悪意(相手は悪意とすら思っていないのかもしれない)に触れたことなんて初めてで、それが仔細に語られたものではなく人生の一部切り取ったものであったとしても、そのダメージは相当なものだった。
それまでに発見した幾つかの好意的な意見なんて消え去って、「下には下がいる」という言葉だけがリフレインする。
大量の好意的な意見があるのに、どうして否定的な意見に負けてしまうんだろうという呟きをよく見る。
しかし、これは負ける。ネガティブが持つ力は強い。
たった数行の呟きに打ちのめされながら、公の場で発言するとはこういうことか、と私は改めて噛み締めた。
私は今週30歳になる。
だから、この場に私がエッセイを投稿するのはこれが最後だ。
表現活動からも一旦は身をひこうと考えている。
しかし、私はこれからも折につけ表現活動をするだろう。
その為に、私はこの経験を忘れない。
忘れず噛み締めて、私はこれからも書いていく。