「もうダメなんだな、オレたち」
そこら中に散らばった『気まずさ』を遠くに飛ばすように、彼はいつものように低い声で話し始めた。
「オレは嫌だよ、別れるの。でも、お前が無理って言うなら無理だよな。そんなに嫌かよ、オレと一緒に暮らすの」
どうやら『気まずさ』は、私の方に一斉に飛んできたらしい。彼の視線は床に向けられていたが、彼が放つ『別れたくない』というオーラは、私を強く圧迫してきた。圧迫されすぎて、息をするのを忘れそうになるほどに。

嫌なわけではないのだ。彼のことも、一緒に暮らすことも、この先結婚することも。彼の妻になることも、いずれ彼との間に生まれる子の母になることも、何一つ嫌なことなんてないのだ。
ただ、私がダメだった。大好きなこの土地を離れるという決心がつかなかったのだ。

遠距離恋愛をしていた彼の中心には私。私の中心は彼ではなかった

4つ年上の彼と付き合い始めて2年半の時が過ぎた。
付き合い始めた頃、私はまだ学生で、彼は社会人だった。時が流れ彼は出世し、私は卒業して就職。彼の愛を感じ、幸せな日々を送っていた私たちだったが、一つだけ、どうしても寂しさを拭えないことがあった。

遠距離恋愛だったのだ。群馬に住む彼と、栃木に住む私。隣接する県だが、移動にはとても時間がかかった。それでも2年半この関係を続けてこられたのは、やはり彼の大きな愛のおかげだったと思う。
「会いたい」と言えば、2時間以上もかけて車で来てくれた。
「どこかに行きたい」と言えば、横浜の綺麗な夜景が見えるホテルに連れていってくれた。
愛されていたと、我ながら思う。彼の中心は私だったと。だが、私の中心は彼ではなかったのだ。

彼の力になるのは嫌じゃないのに、気持ちは彼から離れていた

出世した彼は、いずれ独立して自身の会社をもちたいとよく話してくれた。その時は事務の仕事をしてほしいことも。その為に、そろそろ一緒に住むのも考えようと提案してくれた。
嫌ではなかった。大好きな人の側で役に立てること。嫌ではなかったはずなのに、日に日に気持ちは彼から離れていることに気づいてしまった。
彼以上に夢中になれることを見つけたのだ。自分が今住む、この栃木で。

「嫌じゃないよ。今でも好きだよ。でも、やっぱり群馬には行けない。一緒に住もうって言われた時、嬉しさより不安を感じたの。それが、私の本当の気持ちなんだってわかった。だから、行けない。たぶん、今だからじゃない、この先も」

散々彼に甘えて、ワガママを連発して、挙句の果てに一緒に住めないだなんて、なんて酷い女だろう。私がもし彼なら、女不信になるレベルだ。それでも、私には忘れたくない『思い』があった。

愛される中で忘れかけていた。私が愛しているのは私だった

「あのね、私、社長夫人にはなりません。自分のやりたいことをやる。わたし、地元を出て栃木で一人暮らしするようになって、沢山知り合いができた。この人たちと色んなことを栃木でしたいと思った。忘れたくなかったの、本当の自分のこと。好奇心旺盛な自分のこと。今はまだ、大人しくお嫁さんの準備はできないの」
好奇心旺盛、興味をもったことにはとことん情熱を注ぐ。面接の自己PRで散々言った言葉だ。まさか、こんな所で使うことになるなんて。

「嫌いじゃないっていうのが、余計に辛いな」
でも、どっちかが無理なら、やっぱり無理なんだよな、と彼が再度小さく呟いた。
ごめんなさい。私はこういう女です。
愛され、大切にされる中で忘れかけていた。尽くすことに幸せを感じていた。
だけど、どんなに愛されていても、私が愛しているのは、私なのです。こんな私を、私は忘れたくないのです。