父親はひどい人だった。
家族旅行には、片手で数えられる程度しか連れて行ってはくれなかった。
母の日なのに、「だってお父さんのお母さんじゃないだろ?」と笑って、専業主婦に勤しむ母親のことも、その母親を労りたいと願った娘のことも、嘲ったこともあった。
結婚する以前から関係のあった女性(どんな関係だったのかまでは知っていない)と、母親と結婚してもなお関係を続けていた上に、何人もの他の女性とも不倫関係を結んでいた。
不倫がバレると、見たこともないくらい涙で顔をぐちゃぐちゃにして、頭と地面が一体化するんじゃないかと思うくらい必死で謝っていたかと思えば、奇声を上げながらペティナイフを首に当て、「俺はここで死ぬ!」と叫んでいた。
まもなくパトカーが4台やってきて(危険人物がいるところに向かう時は、少なくとも4台で来るのだと近所のおまわりさんが言っていた)、警察のお世話になって。
そうやってわたしの母親と家庭を傷つけて、めちゃくちゃにして、いなくなった。
いなくなってからは、一度たりとも連絡をくれたことはなかった。
今も、それはないままである。

◎          ◎

思い出せば思い出すほど、哀しいくらいに馬鹿で滑稽で脆い父親だなと思う。
たぶん、わたしのことなんか愛していないと思う。
もしかしたら、覚えていないか、いなかったことにして生きていると思う。

そう思ったまま、わたしからも会いに行かないのは、実際に会ってしまったら、わたしが勝手に愛されてないんだと思っているだけではなくて、本当にそうだと突きつけられるかもしれなくて。
本当にそうだったら、きっと立ち直れないから。
立ち直れなかったら、と思うと怖くて、わたしから連絡もできないでいるのはまた別の話ではあるのだが。

そんな父親も、もちろん、ひどいことだけをしていたわけではなかった。
公園で一緒に遊んだことも覚えているし、飼っていた犬の散歩に一緒に行ったことも覚えている。
綺麗な海に連れて行ってくれたことや、釣りに連れて行ってくれたことも、その時にお弁当屋さんでお弁当を買ってくれたことも、補助輪を外した自転車に乗れるようにたくさん練習に付き合ってくれたことも、勉強を教えてくれたことも、ここには書ききれないくらい、いろんなことを覚えている。
当たり前かもしれなくて、些細なことなのかもしれないけれど。

◎          ◎

大概、わたしもあの人の娘である。
「愛されていた"かも"しれない」欠片を必死に集めて、忘れないようにと握りしめていなければ、今にも壊れてしまいそうなくらい、脆い。

もちろん、今挙げたこと、挙げなかったこと、どれも忘れたくはないのだけれど。
そのうちの一つに、どうしても思い出したくて、忘れたくなくて、数年前に探し回ったものがあった。
自動販売機で売られている、あったかい、ミルクセーキである。
それも、缶のやつ。

幼い頃のことである。
秋。木枯らしが肌寒い季節だったと思う。
父親と散歩していた。
どういう経緯だったかは覚えていない。
ただ、散歩道の途中にあった自動販売機で、あったかいミルクセーキを買ってくれた。

甘くて、あったかくて、優しくて。
美味しかった。
たぶん、味そのものだけじゃなくて。
もっと別の、柔らかくて深い部分に染み渡った。

この記憶を、どこかに忘れてきてしまっていた。
特に、父親がいなくなってすぐの頃に世界は優しくなくなって、体の芯から凍ってしまうような場所でただ震えているしかないような。
生きるだけで精一杯だった。
そんな優しい記憶に触れるだけの余裕が、全くなかった。

◎          ◎

大学入学を機に、優しくない世界から逃れて、ゆっくりできて、自分のことも思い出したり振り返ったりすることができるようになった。
その時に、ようやく思い出したのだ。
あの、あったかくて優しい記憶を。

どうしても思い出したかった。
もう一度、確かめたかった。
近所のありとあらゆる自動販売機を目指して歩いた。
でも、出会えなかった。
探し回ったのが初夏だったから、なおさら見つからなかったんだと思う。
そんなことにすら気がつかないくらい、必死だったのだろう。

ミルクセーキ本体には出会えなかったけれど、ミルクセーキの記憶には出会えた。
だから、父親にはきっといつまでも会えないけれど、父親の優しい記憶にはいつでもまた会える。
ミルクセーキを買ってくれた理由が、わたしのためじゃなかったかもしれない。
今はもう、あるいは、一度も。
愛されていないのかもしれない。
でも、もしかしたら、愛されていた"かも"しれない。
それだけで今はいい。
あのミルクセーキが、わたしの奥深くに残る、忘れたくない記憶。