「海が見たい」
あれは確か、中学2年生の夏休み前のことだったと思う。
とにかくいろんなことから解放されたくて、気づけば衝動的に駅のホームに立っていた。
夏用のセーラー服を着て、財布と水が入っただけのかばんを持った中学生。
駅員の女性に「海に行きたいんですけど……」と尋ねると、少し不審そうな顔をしながらも駅名と発車時刻を教えてくれた。
平日の午前中の電車にはどこかのんびりとした空気が漂い、私の知らない時間がゆっくりと流れていた。
大人になった今でも平日の午前中に心が惹かれるのは、この時間にしかない特別を知ったからなんじゃないかと思う。
今ごろはみんな授業を受けているんだろうなぁと思いながら、イヤホンを耳に差し込んで大好きな音楽に夢中になる私。
後ろめたさがないわけではなかったけど、それ以上に体がここではないどこか遠くに行くことをつよく求めていた。
通勤ラッシュが過ぎ去った車内には乗客が数名乗り合わせているだけで、ちいさな子どもをあやすお母さんと居眠り中のおばあさんがいた。記憶はあいまいだけど、時々大きなくしゃみをするおじさんも一緒にいたような気がする。
誰にも、何にも縛られることのない自由な時間。
電車はガタゴトと走り続け、車窓から見える景色の変化に私の胸は高まった。
◎ ◎
教えてもらった駅に着き、電車を降りた途端にものすごい熱気が体にまとわりついた。
どこまでも追いかけてくるような、決して逃れることのできない類の暑さ。
海がどこにあるのかも分からないまま、炎天下の中をただひたすらに歩き続け、ひとり分の影がくっきりとアスファルトに映し出されるのを見たときに、今が夏であることをようやく知った。
容赦なく照りつける太陽と、じいじいと存在を主張するように鳴き続けるセミたち。
体中から汗がふき出し、すっかり生ぬるくなった水を飲みながら海がありそうな方角へと歩みを進める。
途中で見つけたちいさなトンネルは砂漠の中のオアシスのようで、今までの暑さが嘘のように涼しい風が通り抜けていた。
あまりの心地良さに、少しだけ居眠りしたことを覚えている。
◎ ◎
すっかり汗も引いて流れる空気に身を預けていると、それまで気づきもしなかった潮の匂いがふうわりと鼻をくすぐった。
「海だ!」
気づいた瞬間、トンネルをひと息に抜けて潮の匂いのする方へと駆け出した。
一歩進むごとに視界は少しずつ開き出し、かすかに波音も聞こえてくる。
目の前に広がる真っ白な砂浜と、真っ青な海のコントラスト。
空はどこまでも高く、海は太陽のひかりをキラキラと反射していた。
私のほかに人影はなく、高まる衝動を抑えきれずに、かばんを放り出して裸足で海に飛び込む。
サラサラの砂は焼けるように熱く、海はひやりとつめたくて気持ちよかった。
今この瞬間の自由さにたまらなくなって、ひとり笑うのを堪えきれずにいつまでも夢中になって遊んでいた。
きっと側から見たら異様な光景だっただろうけど、誰が見ようと見まいとそんなことは関係なかった。
ここにしかない自由に辿り着くことができた。
それがすべてだった。
◎ ◎
お昼は海の家のメニューの中でいちばん安い焼きそばを食べたことを覚えている。
麺はふにゃふにゃで作り置きであるのが明らかだったけど、今まで食べてきたどんな焼きそばよりも美味しかった。
不思議なもので、そのあとのことは、ほとんど覚えてない。
駅までの道のりも、帰りの電車内の時間も、家に帰ってからの出来事も何もかも。
きっと母からは何かしら言われたのだろうけど、どれもおぼろげで記憶にないのだ。
でも、と私は思う。
いろんなことから解放されたくて頭がいっぱいになっていた当時の私の選択は、何ひとつとして間違っていなかった。
授業も大事だけど、授業以上に大切なものを体験することができたのだから。
突拍子もないことをするのは今も変わらないけど、やっぱりそう思わずにはいられない。
今年も夏がやってくる。
一体どんな夏になるのか、今から楽しみで仕方がない。