実が好きです。綺麗な色のものから、美味しく食べられるものまで。集めてコレクションするよりかは、鮮やかに季節を彩るそれらを眺めたり食べたりすることに楽しみを見出しています。

小学生の頃、通学路にはたくさんの「実」がありました。野いちご、ムラサキシキブ、ポプラ、どんぐり、びわ、エトセトラ。それらを眺め、食べ、時に持ち帰りました。
コレクションするためではありません。実は種です。家の近くに、庭に、種を撒くのです。
丁寧に植えるわけではありませんでした。例えば風で、もしくは動物に運ばれたように、乱雑に放り投げるのです。それはもう、あらゆる種類の種実をたくさん、何回も。植物の生命力とは侮れないもので、そんな大雑把な種まきでも、芽吹くものは芽吹くのです。
おかげで実家の庭には、野いちごの群生や立派なムラサキシキブなど、私が持ち帰ったあれこれが長く根を張っています。

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中でも一番成長を見せたのは、びわではないでしょうか。芽吹き、雑草として抜かれることなく育ち、常緑の庭木の隙間から溢れる日光を糧にそれらに負けないくらいに伸びたそれは、約十年のときを経て実を付けました。母が食したそれは、小ぶりながらも甘い、れっきとしたびわだったそうです。
ここへ来て、種実の一瞬を楽しむだけ、ではもの足りなくなりました。気まぐれのようにそれらをまくだけでも、足りません。

そもそも、小学生の頃の私が実を持ち帰っていたのは、通学路の好きな部分だけを凝縮させたものを作りたかったからです。それは、庭の片隅に、自分の好きな実のなる植物が、自然な状態で在るようにするというたくらみでした。浜辺で見つけた綺麗な貝殻をガラスケースにしまう代わりに、通学路で見つけたお気に入りの植物を自分の家の庭の一角という箱庭へ投げ込んだのです。
綺麗なものを、生かしたままで宝箱にしまう感覚とでもいいましょうか。

目を楽しませる色鮮やかな実。食べたら美味しい果実。道に落ちて季節の移り変わりを知らせる種実。それらが道端の空き地のように野生的に生える様が好きでした。そしてその様子を自分のごく近くで凝縮させること。それは小学生の時分に半ば達成されていました。

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しかし十年越しのびわは、新しい達成感というか、喜びを与えてくれました。
小学生のときに育ちきれていなかったという理由だけではなく。桃栗三年柿八年とはいいますが、それより長いときを経て成った実には愛しさもひとしおでした。たとえ芽吹くことすらそうたいして期待していなかった実でも、十年間ほとんど存在を忘れていたとしても、自分で実を食べられていなくても。

幸い、実家にも親戚宅にも、庭に多少の空いたスペースがあります。種をまいて、木が育てるような。そうでなくても、植木鉢だって良いのです。
流石にもう大人なので、道端の草木をかき分けて実を取ってくることはできませんが、代わりに食べた果実の種を残しておくようになりました。びわにさくらんぼ、梅、あらゆる柑橘。種の量は、とりあえずたくさん。
丁寧に植えようという感覚はやっぱり無くて、とりあえずすべて植えてみて、少しでも芽が出れば御の字。それがさらに育てばなお良し。気を張らない、宝くじや賭けみたいな趣味です。でもだからこそ、その中で生き抜いて実をならせてくれたら、いっとう嬉しいと思うのです。それが数年後、十年後になっても。そうしてその実を大切に食べるのです。
それが、今の私のたくらみです。