「明日、何着て生きてく?」
少し昔に出会った、あるファッションブランドのキャッチコピーだ。
いつ出会ったのか、もう全く覚えていない。この言葉が劇的に私を変えたということはない。けれど、心の片隅にひっそりと存在してくれた、そんな言葉だ。

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なぜ、そんなにこの言葉が私の中に存在しているのか考えてみた。それはやはり、私が中高生の頃からファッションが好きで、モード系の雑誌から大学生向けの雑誌、OL向けの雑誌などたくさん眺めていたからだろう。

そんなにファッション好きなら、中高生の頃はさぞかしお洒落に拘っていたと思われるかもしれないが、勉強に専念していたので、機能的な服ばかり着ていた。それでもたまに都会のモールやデパートでお洒落な服を買うのは本当に幸せだった。
新しい自分に出会えるようなわくわくとした気持ちは忘れられない。そして大学生になった私は、受験に失敗した無念を晴らすために個性的でお洒落な服を着ることに拘った。大学のサークルではファッションサークルに入って服を作ってファッションショーをした。

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「明日、何着て生きてく?」改めてこの言葉に戻ろう。私は「背中を押すことば」としてこの言葉を思い出した。
服なんて着れればいいのかもしれない。お洒落な服なんて着ていなくても生きていける。戦時中にお洒落な服に拘る人は少ない。服ごときで命を救うなんてことはないのかもしれない。
本当にそうだろうか?

服はその人の性格を変える力があると私は思う。明るい服を着れば明るい気持ちに、暗い服を着れば落ち着いた気持ちになり、ここぞという時の勝負服で勇気づけられたり、服には薬のような魔法のような力がある。

命だって救っていることもあるのじゃないだろうか。例えば失恋して自殺しようと考えていた女性が、街のショーウインドーにあった真っ赤なワンピースに一目ぼれして、それを試着したらもう死ぬことなんて忘れていた、なんてことが。そんな薬のような魔法のような服を明日、どれにしようと考える行為はとても素敵な行為だと思う。
そしてこの言葉は生きている時、いつも服を着ていることも思い出させてくれる。何気なく着ている服がいつもそばにいてくれているのだ。それだけでどこか勇気づけられる気がする。

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私は今まで25年間、数えきれないくらいたくさんの服と生きてきた。思い出せる服のエピソードを書こう。
保育園のお祭りで、他の女の子の子供達は浴衣を着ているのに、自分だけかっこつけてショートパンツとTシャツを着ていて気取っていたこと。
保育園の卒業式で珍しいスカートズボンを履いていて、保育士さんに自慢したこと。
小学生のころ、ふりふりのピンクのカーディガンがお出かけ用としてお気に入りだったこと。

小学生の冬、もこもこしているコートが巨人みたいで嫌いで、薄い水色のジャンパーを着ていたこと。
中学生の頃、校則を破りたくなくてスカートを絶対短くしなかったこと。
高校生の頃、勉強に集中できるようにゆるいズボンばかり履いていたこと。
大学生の頃、大好きなバンドのTシャツばかり着ていたこと。
就活で泣きながらリクルートスーツを着ていたこと。
書き連ねていくと、私の人生といつも服は苦楽を共にしていたんだなと感じる。
未来の私はどんな服とどんな思い出を作るのだろう。直近では私は、明日何着て生きていくのだろう?考えただけでわくわくする。